カメキチの目
Q
愛国心教育について、先生はどのようにお考えですか?
A
現に北朝鮮と韓国は「同国人」なのに、それぞれの国民は自分の所属する統治システムにあまりに強く帰属しているせいで、なかなか最終的な和解に至ることができずにいます。
暫定的な制度だって、人はいくらでも熱狂できるということです。
…でも、そういうものが現に手元にある以上は、たいせつに使わないといけない。僕はそう思います。誰だって、身の回りのものは、丁寧に扱うでしょう。…
(「愛車心」「愛家心」があるとは言わなくても)…愛国心とは、どう手当てしたら国家の性能が上がるか考えること。自分の国は自分の身体の延長のようなつもりで、たいせつに使う。…そこで暮らしている以上は、丁寧に扱う。
自分と自分の身のまわりのもの、自分につながるものは、レベルの差こそあれみんな自然に愛情がわくもの。
自分が生まれた土地、そこの自然、そこの文化…しかり。
恋人、伴侶、親、子ども…。愛の対象は人だけでなく、モノやコトにも思いが宿る。
親しいものはなんであれ、だいじに扱い、接し、ていねいに対しなければならない。「取扱注意物」のように。
「愛国心」もそう。
街宣車でスピーカーを大音量にしてがなりたてる、国粋主義者や「右翼」団体の愛国心はウラに「排外」「排除」をともなったりするので、ここでいう愛国心とは別モノです。真の「愛国心」とはお互いのそれを認めあい、尊ぶもの。自分だけのそれなんてエセ「愛国心」。
国家としての歴史はいろいろあって複雑だが、同じ民族の韓国と北朝鮮。仲よくしたいはず。
「仲よくしたいはず」と思うのは人としてあたり前の感情です。私はそう思ってます。
朝鮮の人たちの愛国心を考えると、第二次世界大戦の戦後処理で、地理的に遠くはなれた戦勝大国の都合で、(具体的には米ソという東西冷戦の大きな大きな犠牲のひとつとして)南と北とに裂かれ、分断された。
いくら人間は社会的な存在であり、「国家」というものの形成が必然的なものとはいえ、個が暮らしてゆくという生き物としての「あたり前」の生活に土足で踏みこんでくる、苛酷を強いるものだと嘆息せざるをえません(だんぜん国なんか無い方がいい)。
(もっとも国家は遠い未来には消えうせ、人間は地球人として、ほかのさまざまな生きものの一種としてみんなと仲よく生きていくか、絶滅するか、二つに一つ。どちらしかないと私は思う。ナウマンゾウを見て《ナウマンゾウは人間が絶滅させたというものの》つくづく感じた)
「わが身に朝鮮民族と同じ悲劇が起こったら…」と想ってみた。
‐日本列島が、アメリカやソ連などに、新潟~静岡あたりを境として東日本国と西日本国とに分断されていたとする‐
(私は西の国民です)
東日本国と西日本国の両国民。戦後の72年間もの長きの間、文句はいろいろあっても、それぞれの統治システム、政治体制のなかで生活してきたから、それぞれの場での暮らしがすっかり身につき、統一・和解できずにいる(両国民の本心、願いはお互い仲よくして一つとなり、もとのようにたすけ合って暮らしたいのに、両国とも支配者・オカミが自分たちの権勢・利益・欲望のためにそれを認めないでいるだけ)。
とくにどちらかの国(東でも西でもよい)は独裁体制なので、民衆が政治への不平不満を持ち、それをみんなが共感して力を合わせてでもしたらオオゴトなので、オオゴトにならぬ前にその芽はことごとく摘まれている。
(私は西の国民のため、個人的に東北が大好きなので訪ねたいが、そこを旅したくても気軽にできないでいる)
「暫定的な制度だって、人はいくらでも熱狂できる」と内田さんは書いている。
確かに70年以上も(ということは一世代も)同じ状態が続き、環境にあれば、人は「慣れる」(というか、「慣らされる」)のだ(私は自分の身体《障害あり》に慣れた)。
北朝鮮の人びとは、それが日常で普通の状態なので、「不自由」を不自由だとは感じないのだろう。「人権」などというものが存在するかどうかさえわからないのだろう。
そもそも「自由」「人権」などという観念は学校で教えられないのだろう。
そこまで、国民はおさえつけられているのだろう。
「圧政」とはそいうものだろう。
ゴチャゴチャ書いてすみません。最後に涙が出るような名曲『イムジン河』の歌詞より。
(できたらユーチューブなどで聴いてみてください)
1.イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国 南の地 思いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る
2.北の大地から 南の空へ
飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
だれが祖国を 二つに わけてしまったの
誰が祖国を わけてしまったの
3. イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ おもいを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る