カメキチの目
「空気を読む」
昔からあった言葉なのだろうが、よく使われるようになった(よく聞くようになった)のは、それほど古くはない気がする。
私は若いときは聞かなかった。初めて耳にしたとき、「空気の成分を理解する」とは思わなかったが、すぐにはわからなかった。ヘンなことを言うと思った。
鈍い私でも、その言葉の前に「場の」がつけば「雰囲気」を連想し、「空気」は「雰囲気」のことだなとわかる。
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内田さんの言葉。
『街場の読書論』から【引用】
「場の空気を読む」という、本来は「おとな」の言葉が、高校生の間で流行しているという事実にまず驚いた。というか、気持ちがわるかった。
次に、KYが「空気を読む」とか「空気を読め」という意味ではなく、「空気が読めない」という否定形の略だということに、いやな気がした。本来、この表現は「空気を読め」という「心得」であろう。それに対して、「空気が読めない」というのは、排除の表現である。排除の対象にたいするレッテルである。…
だが、その「空気」の中身がひじょうに下らないものだとしたら?」
ちなみにネット辞書(「デジタル大辞泉」)では、
「その場の雰囲気から状況を推察する。特に、その場で自分が何をすべきか、すべきでないかや、相手のして欲しいこと、して欲しくないことを憶測して判断する」とありました。
大人になると、社会(場所)の「多様性」に巻きこまれるので、そこではその場に合わせる必要がでてくる。
子どものときは「自分中心」でもすまされたことが、それではすまされなくなることが格段に増えてくる。
「空気を読む」こと自体は、「文脈を読む」ことでもあり、大人としての成熟に関わるたいせつな心の働き、営みであり、たいせつなことなのだ。
とくに日本では「文化」にもなっており、「いちいち言わんでもわかるだろ…」とよく叱られます。
そういうとき、私は
中身が納得できることなら、すなおに「自分が鈍かった、悪かった」と反省したけれど、
「ひじょうに下らないものだとしたら」叱った相手(おうおうにして自分より立場が上)の背に心で「アッカンベー」をしたことがあります。
(ほんとは「生産的な」反応をすべきなのだろうが、私にはその勇気が欠けていた)
内田さんは「空気を読む」が、実際の場では「空気が読めない」という否定形でつかわれていることに、「いやな気がした」と書かれる。
「空気が読めない」というのは「排除の表現」とも。
そして、「その『空気』の中身がひじょうに下らないものだとしたら?」と。
ここでもまた「モリカケ」(いつになったら解き放たれるのだろう)の「忖度」が想起されました。
ひじょうにひじょうに下らない「空気」のために、自殺した人まででたというのに、世の中からはもう「モリカケ」という言葉さえ忘れ去られようとしている。
私は蕎麦を食うたびに「モリカケ」を思いだす。
そのたびに、美味しい味が不味くなります。
ちりてちん