久しぶりにブログへの思いを書きます。
【「はてな」を始めるまで】
・12年まえ障害を負ってからの1年間は休職。その後、職場復帰。復帰はしたものの到底いぜんの仕事はできず、「リハビリ勤務」を認めてもらい週2、3日の勤務。
時間によゆうがあり、これも「リハビリ」と思いhpを作った。が、読み手がいるかどうか怪しく、そっちはやめてブログに変えました。
・数あるなかで「はてなブログ」にしたのは、たまたま見たネットで「はてな」がやりやすいとの記事をみたからです(偶然)。
【「はてな」を始めてから】
・「他のブログをやっていたかもしれない」。そうしたら他の人たちと知りあっていたに違いありません。
「たまたま」というのは人生にとって決定的です。みかたによれば、人生そのもの。
そう思い、読者のみなさんとの「たまたま」の出あいをたいせつにしたい。
(それが「縁(出あい)をたいせつ」にしていることになるのかどうか、はなはだ疑問ですが、どうしても共感できないこと以外はどなたの記事にも等しく☆5個をつけさせてもらっています。ほとんど興味・関心がないときはきっちり読まないので、記事を書かれた方にお詫びしながらつけます。お許しください)
・お詫びしたばかりですが、興味・関心といってもそれはいまの自分が持っていないということであって、この先も変わらないというわけではありません。
(それに興味・関心があるとかないとかではなく)まったく知らなかった世界に出あい、驚き、目を開かせられることがあります。
またあるモノゴトについて、自分とは違った視点に出あい、教えられることがたくさんあります。
・ともかく、ブログをするようになって、みなさんを通じ世界の広さ、深さに圧倒されることがある。
これら多様な世界の存在を知るにつけ、自分の世界の狭さ、浅さを痛感せざるを得ません。
(しかし、自分も「多様性」のひとつなのでした)
〈オマケ〉
ずっと前、記事に書いたことありますが、茂木さんという脳科学者が「偶有性」ということについて述べていたことを、ときどき思います。
「もしかしたら、私(自分)はあの人(他人)だったかもしれない」。
別に人間でなくてもいいのです。あのネコだったかもしれない。
もう死んだ(過去)もの、まだ生まれていないものかもしれない。
そんなこと想っていたら、私はこういう自分であったこと、あることが「フシギ」です。フシギを生きるのがおもしろい。