カメキチの目
中学生のとき、教師によくいわれた。
「わからない言葉があったら辞書をひいて調べよう」
「面倒くさくてもそうしよう」と
そんな昔もすでに、教科書にあわせた参考書(通称「虎の巻」)はありました。
(いちいち辞書をひかなくても、苦労して調べたり考えなくても、「先生、教えてください」と頭をさげなくても、「虎の巻」は一発で正解がわかる)
「いいものがある」「〇〇も持っている」と親(とくに母)にうまいこと言って買ってもらったことがあります。
【余談】
「ラク」という魅力には勝てない。学校の勉強も同じ。
(そのことがわかるのはずっと先、大人になってから)
子どもに「ラクはダメだよ」と説教してもダメだと思う。
しかし、「ラク」の反対、「辛い」と大人が感じることでも(それを「ラク」とまでは思わなくても)子どもにはあまり抵抗のないこともありそうです。
人間として生きるうえで必要なことは「押しつけ」てもいいのではないかと私は思うのですが。
ところで、悪くいえば半ぶん親をだましてを買ってもらった私は上記のようなエラそうなことは言えませんが、「虎の巻」の威力に「うしろめたさ」「心の痛み」のようなものも感じたことがあり、そんなときには正解から問いへと逆コースをたどり、問いと答えの関係を確かめたことがありました(たまにそういう殊勝なこともやった)。
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『バカの壁』で有名な養老孟司さんの対談本(『日本の大問題』という大げさな名前の本。出版社がつけたにちがいない)を読み、刺激されることが多かった。
人間が社会的存在であることなどはわかりきっているので「社会」という大上段からではなく、養老さんは(『バカ…』も他の本もそう)誰にもあてはまりそうな身近な個人の生き方から、凡人では気がつかないようなたいせつなことを述べておられました。
そのなかに「修行」ということがあり、強く胸に響きました。
(「修行」といえば修験道や寺での坐禅とかを想いますが、ここでの「修行」はそういう特別なものではない。広い意味での自己鍛練のようなもの)
養老さんは
現代の日本の教育は「情報」に支配されているという。
今どきの学校はさまざまな情報電子機器が導入されようとしているようです。わざわざ郊外に出かけ自然に直接ふれなくても、教室で仮想体験で手軽にすまされる。つまり、効率重視で手間ひまかけない。まるで、「虎の巻」教育です(「虎の巻」はかつては自己学習の一手段だったが、いまじゃ教育自体がそうなんだ)。
そうしたIT化の一方ではランドセルの重さが問題になっていますが(養老さんは「バカ」と笑われるだろうか)。
教育にだいじなのは「修行」といわれ、「情報」の真反対に置かれる。
【引用】
(教師の過剰労働が社会問題となっている現状)「報告書や書類といったものは、言ってみれば「情報」です。つまり過去の事柄です。こうした「情報』にウェイトをかけて、先ほど言った『修行』のようなもの、『言葉にならないもの』が無視されているのが、いまの学校ではないかと思います」
私は「修行」そのものだけではなく、「修業的な」も含めて広くとらえました。
そうとらえたとき、初めに書いた大昔のエピソードを思い出した。
もちろん、「辞書をひく」ことが「修行」ではありません。修行とはあまり関係ないですが、ちょっと似たところがあうように思えます。
時間がかかっても、すぐに結果には結びつかなくても、コツコツ地道に「する(べき)ことをする」「やる(べき)ことをやる」。
長い目でみれば、そのことが人間形成につながるという古くからの、「寺子屋」時代からの教えがあると思いました。
「言葉にならないもの」、すぐには結果にあらわれなものをだいじにすること。
たとえ、将来において結果を出せなくても(たとえ「役に立たない結果」になったとしても)、その「修行」は(その修行をした)あなたという人になっている。あなたという人格にあらわれている。
「役に立つ・立たない」というとき、「何に対して(役に立つ・立たない)」ということまで深く考えられているのだろうか?
目先の見えるものだけ、言葉になるものだけにこだわっているのではなかろうか?