カメキチの目
「パフォーマンス」
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「パフォーマンス」。辞書によれば意味はいろいろありますが、ここでは「芸術」や「人目を引く」のほうではなく、「働き」「機能」「性能」のほうです。
この言葉は昭和ではあまり使われなかった(と思う。私だけかもしれないが聞いたことがなかった)。
あの人が総理になる前後から、メディア(とくにテレビ)が流行らせた言葉だと思っている(もちろんそのときは「人目を引く」のほう。メディアのおおかたは、自分は自民党でありながら「自民党をぶっ壊せ!」と刺激的な言葉と物腰を弄する彼を総理大臣にと《それが自分たちの利益につながるので》持ちあげていた)。
それはどうでもいいが、
「パフォーマンス」について内田さんはこんなことを述べる。
『街場の読書論』から【引用】
書斎にこもって万巻の書を読んでいるがひとことも発しない人と、ろくに本を読まないけれど、なけなしの知識を使い回してうるさくしゃべり回っている人では、後者の方が脳のパフォーマンスは高いということである。
パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」ということである。…
(自転車のことをあれこれ知るよりも、「乗る」方が先でしょ の話)…
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なるほど、「知っている知識を使える」ことか。
と、いちおうは理解したけれど、なんか釈然としない…
「知る」(「知った」)こと、「知識」を何かに使う、役だてるのは自分のためだろうと他人のためだろうと大切なことだが、「知る」こと自体が目的でもかまわないと私は思った。
「知識欲」という言葉がある。それに自己満足するなら、それが生きる楽しみとなり、生きるエネルギーとなるならいいと思う(なかにはいろいろなことを知って「クイズ王」になり、ギネスに載るのが目標という人がいるかもしれない)。
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…と考え、ハタと気づいた。
内田さんは、知識を「宝の持ち腐れ」にしないで使おうといわれているのだと。
「クイズ王」になるのは「知っている知識を使」ってこそのこと(「宝の持ち腐れ」にしていない)。
知識だけでなく全身も使わなければならない。競争相手のだれよりも早く腕・手先の筋肉を動かしボタンを押し、正解を答えなければならない。
(そう思うと、一般的に「スポーツ」といわれているもの中には「瞬時」を競うものがありますが、電子ゲームが「eスポーツ」といってスポーツ扱いされようとしているのもうなずけます。分野はまったく違うけれど「百人一首」選手権、歌カルタを競う人の手の俊敏さも《「eスポーツ」ゲームも頭の判断の素早さを伴ない、こちらは百人一首を覚えておかなければならない》共通していますね)
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「宝の持ち腐れ」にしないのもたいせつですが、同時に「知っている知識」について問うこともたいせつだと思いました。
現代では多くのことが誰でもインターネットにアクセスすることで、きわめて簡単に知ることができます。
だいじなことは、人が一生かかってもアクセスできない膨大なネット世界(玉石混交の中)から、「知るべき」あるいは「知ったほうがいい」知識(情報)を「身につける」ことではないだろうか。
きっと、それがパフォーマンスを高めることにつながると思いました。