カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2018.12.22  自分で考える-(内田さん④)

                                                  カメキチの目

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「自分で考える」

 

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内田樹さんは思想、哲学の先生なので著作にはときどき教科書に載っている人が出てきます。

 

『街場の読書論』から【引用】

「カントの真骨頂はここからだ。「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在している。それは「人間」であることだ。

カント『啓蒙とは何か』冒頭部分 「啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。…

カントは別の箇所で「考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれる」とも書いた。それは、既成の「枠組み」に従って考えることだ。それが「公的」と「私的」との違いなのである」

                         

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ようするに、

 人は自分の頭、理性を使って考えなければならない。

それが「主体的」ということなのでしょう。

ブログを書くということは、まさしくこのことの実践ですね。

 

でも、ややこしいこと、自分の損得にあまり関係ないことなどに、

自分の頭を使うのは「面倒な仕事」で、つい他人まかせになりがち。「丸なげ」したくなる。

面倒なことを強いられたときにいちばん簡単なやり方は、自分で考えることなく「枠組み」、出来あい(既成)の「ひな形」に当の問題を入れること。

「枠組み」なら世間にはたっぷり用意されている(「常識」とか「みんな」とか「普通」…。私も知らぬうちに利用しており、たまに気づき愕然とする)。

 

 カントはあらゆる「枠組み」を否定し、ただひとつ「人間」である「枠組み」(「基準」「骨格」)のみ認める。

昔の人気をテレビ番組『金八先生』の第二シリーズの歌に、「人として」という言葉がありました。

金八先生は青くさい話を生徒たちによくしていたけれど、みんな「人として」の話であり、「金八節」に深くうなずきました(そのときだけは私は自分を棚にあげられた。つまり私自身の「人に反する行為」を忘れることができた。金八節に酔っていた)。

金八先生、ありがとうございました。 

 

                  ちりとてちん

 

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