カメキチの目
はじめに、愛読しているkeroyonさんの1.13の記事を紹介します。
引用文(河合隼雄)中の「(理解しあう命がけの作業は)一般的に言って、中年になってから始まるといってもいいだろう」
に深くうなずきました。
冷や汗ながらも幸い、「中年(いや老年になっても)離婚の危機」をなんとか乗りきった者としては、感慨がある。
(といっても、けっしてここで「離婚」《または「継続して結婚」》という決断の云々をいうものじゃありません。「結婚」状態をつづけるか「離婚」にふみきるか、どちらが望ましいかは本人たちの問題でケースバイケース、千差万別、いろいろ。
結婚は相手あっての問題なので、自分はダメな人間だと自覚していてもそのダメさを受けいれてくれる相手がいれば、そしてそのことをお互いが了解しておれば成りたたせられるので、ともかくふたりの問題であると、いまさらながら実感します)
「結婚する」とは相手の人生を(お互いが)自分のほうに組みこむところがある(いやこういう表現より「渾然一体」となるというほうが当たっている方々もあるでしょう)から、河合さんがいわれるように命を賭けるくらいの責任が必要になるのではないか。
気にいらないことがあったからと気軽に「成田(関西)離婚」してはいけないのではないか。
(結婚・離婚に限らないが、人間のことに関するモノゴトは、「流れ」のなかでみなければならないと思う。「固定」的なもの、変わらないものなんてないと思う)
結婚を「愛の最終目標にしてはいけない」「それは通過点」、「愛は高めるもの」「…深めるもの」など、わかったようでわからないことがよくいわれる。
わからなくても言葉に酔って、「よし、高めるぞ!」と私も結婚したとき意気ごんだ。
(言葉というものは、それを発する・受けいれるときの人の状態、心によってコロコロ変わるものですね)
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人と人の関係というものは(「結婚」だけでなく、たとえば「仕事」でも)、はじめ頃の前向きな(高揚)状態にあるときはウキウキしていて有頂天になりやすいので、それに同じところ・共通のところを向いているので「協力」しやすい。
「理解」が底になくても「協力」してゆける。「協力」を「理解」と勘違いしやすい。
しかし、ともに長い道を歩いていると、感違いが露呈。(相手を「理解」していない)「協力」の底の浅さが見えてくる。
よく考えれば、人の「(心の)理解」は「理解した」と断言できるものじゃないし、それに相手もこちらも変わっていくので、「理解」というのは、「理解しよう」とたえず努力する姿勢、態度をさすのでしょう。
「協力」している(しばしば「つもり」になります、結婚生活ではとくに男、夫)、していても「協力」は「協力」にすぎない。「手伝い」である。
「なんで怒るのかなぁ?わからん!女性は理解しにくい。こっちはちゃんと手伝っているのに…」と、よく思っていたが、私は歳とってやっとその大まちがいに気づいた。
【引用】
協力関係を「理解」と取り違える人は、どうして相手が急にわからずやになったのかと思ったり、今迄の協力が偽物だったのかと思ったりするが、そうではない。(略)(理解しあう命がけの作業は)一般的に言って、中年になってから始まるといってもいいだろう。その難しさをよく自覚していると、少しの不理解で驚いたり怒ったりするのではなく、それから迎える老年のために、新たな気持ちで少しずつ努力を続けてゆこうという気にもなるだろう。
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河合隼雄さんの本は何冊か読んだけれど、keroyonさんの記事であらためて「深いなぁー」と思った。
私も「協力」と「理解」の違いをまったくわかっていなかった。
というより、よく使うのにふたつの言葉を意識して考えたことはなかった。
どちらも相手を思いやる、心地よい言葉である。酔いやすい。
(keroyonさんがご自分のブログに取りあげてくださっていて、私もかつてどこかで河合さんのこの文章を読み《そのときは》感激していたのかもしれないが、まるっきり忘れていた《keroyonさん、ありがとうございます》)
「理解」は「協力」を超えたより深い、根源的な言葉、概念なのだ。
そういえばよく、「理解はできても協力はできかねる」というのも聞く。
そう言われても、(「協力できないのは理解が足りないから」とはいえるにしても)その相手の言葉を「理解」して受けいれられる器の大きな人間になりたい。