カメキチの目
「神話」のたいせつさを河合隼雄さんの本で初めて知り、もっと知りたくて
『「日本人」という病』を読んだ。
その一節がまたまた強く心に響いた。
人生における「体験」、「賭け」のたいせつさを書きます。
【引用】
答えのないことがたくさんある
山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄が…
あれは、別に木や石が神さまではなく、大きい木や石に対面したときに感じる
すべて、これが神なんです。…
こういうことがわかってきて、ユングが、このように言っています。
我々の人生にとって大事なことは、自分の体験である、と。…
(私が)私の母の死に対面したときに、母親の死体がどうなったかということ
ではなく、その全体の中の私の体験そのもの、これを宗教あるいは宗教性と
呼んでいいのではないかと言うのです。
ですからユングは、宗教性というものは我々の全体を揺るがせて、
もうそれに対抗することもできないような圧倒的な体験を、
「注意深く慎重に観察すること」であると言うのです。
ここで観察と言っても、私が薔薇の花を観察しているのとは違って、
いや私の母の死という場合は、私自身が体験しているわけです。
観察している私も、観察されている私も一緒なんです。
いわゆる主体と客体が分離されていない。
そういう私の全体を揺るがせるような体験、それが宗教性である…
「私抜き」にならないように
我々は「自然科学の知」と「神話の知」の両方を持たないといけないのではないか
そうでないと、「私」という存在は消え失せてしまうのです。
せっかく生まれてきた私が、世界とどう関わるか。
そうすると、「私の生」「私の死」を中心にして自分の人生を語るということが
非常に大事になってきます。…
「このくらい」と言っても、小さめに思うであろう相手にはもっと広げてみせるし
言ったとおりに思ってくれる相手には、それくらいの幅にします。
それはなぜかと言えば、「そのときの真実」というものがあるからです。…
みんな「神話の知」を知っているのです。…
大学入試というのは自然科学の知をやっているのです。
普遍的に、みんなに共通することだから、…
本当は、話にならないことを覚えておいて、「私の話」というのをやらなければ
いけないのですが、みんな自然科学が忙しすぎて、神話の知を忘れているのです。
死んでからのほうが時間は長いのに、いくら頑張ったって百年は生きられません…
「私の人生はこれに賭けた」と言えるもの
ただ、ものすごく大事なことは、自然科学の知と違って、
神話の世界には「賭ける」ということが存在します。「私は、それに賭ける」と。
「私は、地獄はあると思う」「死後の生命はあると思う」と。
「嘘かもしれないけれど、法然さんの言うことに賭けた」とか。
自然科学には、そんなことはありません。ニュートンに賭けるとは言わない。
なぜかというと、自然科学の法則はニュートンとは関係なく述べられている…
しかし、神話の世界には賭ける必要がある。…
僕は思うのですが、せっかくこの世にみんなと違う人間として生まれてきたわけ
ですから、「俺はこれに賭けた」と一度は言わないとおもしろくない…
賭けると言っても宝くじを買うだけじゃね。
「私の人生は、こう賭けた」ということを言えるほうがいいんじゃないか。…
(注:()、赤字、太字はこっちでしました)
■ 体験
「我々の人生にとって大事なことは、
自分の体験である」
そんなこと言われんでもわかっとるわいと返したくなります。
(「体験」という言葉がきわめて大雑把なので「我々の人生に…」といういい方を
すると当然の事実に思える)
しかし、ここで著者がいうのは正確にいえば
「自分の感情の体験」ではなかろうか。
私たち一人ひとりが同じようではあっても(「同じよう」
「似たよう」でもあり得るから「共感」が可能)決して同様、一緒で
あり得ない。
「感じる」ではなく、頭で「理解する」(理解の体験)ならば万人共通で、
しかも時間さえ乗りこえる。
私の「感情の体験」は、まさに「今、ここ」だけの
私だけの出来事、言うなれば「神話の知」であり、
人生は(著者のいうとおり)「自然科学の知」と「神話の知」の両方を
持たないといけないのではないか
そして、「そのときの真実」、感じたことを大事に
しなければならない。
「私の生」「私の死」を中心にして自分の人生を語るということ
■ 賭け
ものすごく大事なことは、自然科学の知と違って、
神話の世界には「賭ける」ということが存在します
「賭け」は、一部の人が行うバクチ・クジ・占いなどの意志による一部の能動的な
ものだけでなく、運命(すなわち人生)のような誰にもいえる普遍的で受動的な
ものでもあります。
(人生そのものが「賭け」)ならば、
「俺はこれに賭けた」と一度は言わないとおもしろくない
人生は「神話」なのだ。
「科学」のように、1+1は必ず2になる合理性、
すべてに当てはまる普遍性を「人生」は持ち合わせて
いない。
それでは居心地がわるく、落ちつかないので、
自分で自分を納得させるための自分の「物語」を作る
同じ作るなら、(死ぬときにならないとわからないけれど
《わからないからおもしろい》)やっぱり、
「俺はこれに賭けた」と一度は言わないと
おもしろくない
※
赤木俊夫さんは高校卒業後、国鉄に就職1987年の国鉄民営化で
中国財務局島根財務事務所に転職。勉強熱心で、立命館大学法学部(夜間コース)
に通うために後に近畿財務局京都事務所に移った。
そして「森友事件」に遭遇。自らの命を絶った。
(「命を賭ける」ほどの理由、ワケ、事情…が人生にあるだろうか?
残念でならない)