カメキチの目
「神話」が発するメッセージを、現代社会の私たちが聴くことのたいせつさを
河合隼雄さんの本から書いたが、
河合さんは心理療法家として、傷ついた心を回復させるうえで、
ひとりの人間として日々つくられる自分だけの「物語」を語るたいせつさも
述べておられる。
(ブログはインターネットで公開する日記みたいなものだから自己流「心理療法」
かもしれないですね)
河合さんの本を読むと感銘することがいっぱいある。懲りずにきょうも書く。
(が、とりあえず今回で最後とします)
【引用】
河合: お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ
分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。
善とか悪とかでもそうです。
だから、魂の観点からものを見るというのは、
そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。
障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。…
小川: それで、その魂と魂を触れあわせるような人間関係を作ろうというとき、
大事なのは、お互い限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだ
という一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね。
河合: やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いています。
やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。
まあ大体忘れているんですよ。みんなね。…
(注:赤字はこちらでしました)
魂とは何かときかれて、河合さんは
分けられないものを明確に分けた途端に消えるもの
と答えるとのこと。
「分別」「区別」して詳しく調べるのを「分析」
というけれど、(逆に細かくしたものを統合《総合》することを含め)
そういう方法、態度が「科学」を生みだし、
発展させてきた。
魂と科学はちょうど真反対の関係にあるのだろう。
魂と魂が触れあっている人々の関係というのは、
お互い死ぬもの同士という感覚を共にしているところ
にあるということに、ジーンときた。
「どうせ死ぬんだ」という自覚はとてもたいせつ
ではなかろうか。
だから、なんでも好き放題やればいいともいえるけれど、問題なのは「待てよ」
私はほんとうにそれが好きなのか、心から望むことなのか?
(と魂に聴いてみなければならない)