カメキチの目
私は自分を『年より』とか『老人』というけれど、60を越えたら人は立派なそれだと思っている(寿命がのびた現在では時代にあわないといわれるかも)。
だから「老いる」ということには強い関心がある。
現在の自分のことであり、これからますますそれらしくなるから。
「大人」といわれるようになってからの20代、30代、40代、50代。
60になってしまうと、「あっというまにこんな歳になった」としみじみ思う。
それまでと確かにちがう自分を見、実感する。
(鏡に、白髪、シワだらけ、ハゲ、若かりし時代の《少しはあった》輝き・張りを失った己がみえる)
昔のあれこれが思いだされ、なつかしむことが格段にふえた。
それだけではない。
「老い」そのものと、そのちょっと先、続きであり終わりである「死」を思い考える。
中年といわれるころになったら、(家庭生活も順調、仕事もおもしろい。いまは幸せいっぱいであっても)一度は、来しかたをふり返り行くさきを想ってみるのもいいのではないか。
上り坂と下り坂の中間はてっぺん。頂上なのでどっちもよく見わたせる。
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よく引用させてもらっている朝日新聞『折々のことば』の鷲田清一さんの『老いの空白』という本を最近よんだ。
痛くなるほど深くうなずいた。
自分ひとりうなずくだけではもったいなく、みなさんがアクビされ、スルーされることのない範囲で書きます。
(鷲田さんの言葉を、「自分の言葉」としてまちがいなくお伝えする自信がないので、本からの引用文が多くなることをお許しください)
本のことは次回からにして、きょうはその前に思うことを。
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暮れに「100歳」という記事を書きました(テレビドキュメンタリーの紹介と自分の感想)。
そこでは日本の老いの現実を、主にその人の老後を支える社会、国など、つまり周りからの援助体制、法や制度の問題点、未熟さから指摘された。
けれど、人間の生活・営み、つまり生きることは、必ず本人(当事者)の側、主体者としての立場になってみなければならない(老人ほんにんだけでなく、「介護」する側にとっても)。
「老い」考えるとき、老いを取り囲む国・自治体の介護の法制度は基本的にたいせつなことはいうまでもないが、個々のお年よりが「老い」を自分の人生の問題としてどのように受けとめるか、それに介護にあたる人たちの「老い」とか「介護」(「介護」というと仰々しいので、「世話」と呼べばいいと思うのですが)への態度、姿勢も同じようにたいせつなことだと、(この本を読んで強く)感じた。