途中まで進み、「あああ…この本、読んだことあるような…」という気がした。
しかし、初めてのような新鮮な気もちで終わりまで読んだ。
(確かめると、やっぱり2年前の6月に2回にわたり記事まで書いていた。
ほとんど忘れていた。記憶力の衰えをすごく感じる。
しかし、「忘れる」からまた新鮮な気もちになれると前向きに考えようっと。
これからもっと忘れやすくなるのだから。
2年の間に、ツレの脳梗塞発症のこともあり、それまでは少し余裕を持って構えていた「老化」
「老い衰えゆくこと」を痛感した。
同じ本でも2年前と比べ、読む姿勢の真剣さが増した気がした)
『老い衰えゆくことの発見』 天田城介・著
(グーグル画像より)
今回は後半の、「施設で老いるということー耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶ」
という「施設介護」についての一章が、とても強く胸に響いた。
ーーーーー
先のことはわからない。
(しかし、「施設介護」という言葉が肌身で感じられるようになったことは確か)
① 「認知症高齢者」のあいだのコミュニケーション秩序
② 「徘徊」に隠れた意味のあるストーリー
③ 「母性」という名の秩序化の装置
④ 記憶のテスト〈従属化〉の儀礼
⑤ 親密性の擬制化
(今日は①と②です。③④⑤は次回)
ーーーーーーーーーー
① 「認知症高齢者」のあいだのコミュニケーション秩序
「〈「認知症高齢者」のあいだのコミュニケーション秩序〉
「認知症高齢者」とは、”おかしなことを言ったり””不可解な行動をする”から
コミュニケーション的秩序を侵犯するのではない。
私たちがコミュニケーション的秩序を維持・達成するために、あるいは私たちが自らも自尊心や
プライドを価値あるものとして説明しようと躍起になるために、
”おかしなことを言ったり””不可解な行動をする”人びとを「認知症高齢者」と名づけ
=カテゴリー化して、排除しているに過ぎないのである」
(著者は社会学の先生・研究者だが、長い間、アルバイト的な補助役として認知高齢者施設の現場で
働いてこられ、本にはそのときの豊富な経験の具体例が細かく描写されており、そういう具体的な
裏づけのもとに引用の言葉が導き出されているから強い説得力が感じられた)
「”おかしなことを言ったり””不可解な行動をする”」認知症高齢者であっても、
その方たちの間ではちゃんとコミュニケーションが成立していると著者はいう。
確かにその方たち(認知症高齢者)の会話は、第三者が見たらとんちんかんで、
とてもコミュニケーションが取れているようには見えない。
「普通」(といわれる)「常識的」な「一般」の価値観からすれば理解しがたい。
しかしそれは第三者、「一般」の「普通」の人たち、介護のアマの人たちには
そうでも、プロ、専門の仕事として認知症高齢者の人たちに関わる介護者たちには
当てはまらない。
いや、プロがアマと同じであってはならない。
ーーーーー
この本では、認知症高齢者の人たちが確かに「おかしなこと」を言い合っており、
私たちからすればとてもコミュニケーションが行われているとは思えなくとも、
本人たちの間では納得し合っているので、(そういう意味では)通じ合ってる、
コミュニケーションは成立しているといってもいい。
(コミュニケーションを考えてみるとき、狭い意味での「意思疎通」におかず、もっと広い意味、
「人と人との結びつき」におくことが根本的にたいせつだと思う)
ーーーーー
認知症高齢者になって「わけがわからなくなった」と諦めたり嘆いている人たちと
コミュニケーションが取れないからといっても、決して排除の姿勢を取っては
いけないと、著者は本の全体を通じて熱く述べる。
(人間にとって「自尊心やプライド」はとてもたいせつだ。
「認知症高齢者になりわけがわからなくなった」からといって、物事への理解・認識が困難になった
ということだけであり、決して「自尊心やプライド」そのものがなくなったわけではない。
強いていえば、「自尊心やプライド」の表現の仕方が認知症高齢者的になったに過ぎない)
ーーーーー
② 「徘徊」に隠れた意味のあるストーリー
「「徘徊」と呼ばれる現象には、当事者にとって有意味な背景/ストーリーがあり、…
「徘徊」という用語で理解するのではなく、
「日常生活を営む人間」の一行為としての「移動」として理解するほうが適切」
「徘徊」に限らず、認知症高齢者の第三者的な目からは理解できない言動でも
「当事者にとって有意味な背景/ストーリー」があることを理解することの
たいせつさを痛感した。
(脳梗塞は発症した個人によってずいぶん大きな違いがあるが、認知症とは明らかに違う。
違うけれども、CTに自分の脳の一部が白く映っているのを見たとき、
そのことをきちんと理解できるからこそ、ツレはだいぶんショックを受けた。
彼女の場合、脳梗塞の本にもあったようにイメージはしっかりあっても言葉が出ない、出ても間違える
ということが発症当初はもちろん、いまもある。あっても、
普段からいっしょに過ごしていれば「当事者にとって有意味な背景/ストーリー」は察しがつきやすい。
赤ちゃんを相手にするように、ていねいに接しなければならないのだ。
《そのことが頭ではわかっていても、早とちりしたり、感度の鈍い私の脳ミソはトンチンカンな反応
したりで、よけいに困らせ混乱させることがしょっちゅうだ)