カメキチの目
(じつは、前回《それに限らない》の記事はあまりに【引用】が多くて長い、読む気にならないとさんざんケチをつけられました。
「それでも読もうという方にだけ…」と言い返したのですが、「それじゃ、なんでブログを…」と続き、「そりゃあいろいろあるし…」になり、気まずい結果になりそうだったので、「成熟」した私は謙虚に耳をかたむけた。
で、なんどか推敲し短くしたつもりなのですが、これ以上は削れないと思っています。すみません)
④「ある」(存在する)ということ
今回のところでは、鷲田さんは芹沢俊介さんの著作から引用されていた。
(芹沢俊介さんの本を私は、さく年の3月5日から5回にわたり『存在論的…』という記事で紹介しました)
芹沢さんは哲学の専門家ではありませんが、「社会的弱者」といわれる人たちの存在を、外(社会との関係)からではなく、「ある(居る)」という個人としての人間の根源、内に深くさかのぼってとらえられる。
【引用】
「(芹沢俊介さんの言葉)「…ところが『する』という眼差しから、この極限的な身障者を見たときには、全く価値がないということになってしまいます。社会的に何ができるのか、自分に何をしてくれるのかという側面から問いかけたら、価値はゼロ、ことによったらマイナスとさえみなされてしまうのです。なぜならば、私たちがその人のためにいろいろなことをしなくてはいけない、「する」を強いられるからです。極限的な身障者というのは、ここで重度に介護が必要なお年寄りと、赤ちゃんのイメージと重なってきます」…
ひとつには、ケアされる人を「被介護者」という、いっそう受け身の存在にしてしまう。「こんなことまでしてもらって申し訳ない」という遠慮を強いることになる。他方、介護者のほうは、「あれができなかった、これもできなかった」というふうに、介護のさなかに、あるいは介護のあとに、じぶんを責めることになる。ケアという、他者へのかかわりに懸命な人ほどそうである。「ある」を「する」からしか見られないというのは、「する」ということの内実をも簒奪してしまうのである。
「できない」ということは言うまでもなく、「する」ほうから見るから「できない」のである。そして「できない」ほうから「する」を見ると、あることを「できない」こととしか見えにくくさせている「する」の仕組みのほうがむしろ浮かび上がってくる。「できない」ことの多くは、「できる」と「できない」ことを仕分けて「できる」ことのほうから行動の環境がかたちづくられ、行動の制度が組み立てられているからこそ「できない」にすぎない。…
しかし、べてるの家が探っている〈弱さ〉の意味は、強さ/弱さという対比のなかで語られる「弱さ」なのではない。むしろ、強さ/弱さという二分法をいわば解体するような思考をたぐりよせるためにこそ、「弱いところのそのまた弱いところの、その中の弱いところがすばらしい」と言われていたのだった。…
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この部分を読むとき、私は震えるような気もちになった。
「ある」、つまり「居る」という人間存在の根源からモノゴトは考えていかなければならない、考えていったほうが生きやすいということ。
そういうふうに人間をみると、「やさしさ」がわいてきそう。
「ある」は、植物をふくめての自然物は「ある」。
(「ある」という形で「する」、「している」)
なにを「する」でもなく、「ある」だけで価値がある。
というより、「価値」の有無なんか超越して、われわれ人間もそこにしか存在しえない。
こう書いているとなにかスピチュアルなことを言っているとか、言葉に酔っていると言われそう(そうかもしれないです。しかし「言霊」という。いま、私には言霊が降臨しているのかな)。
と、書いて更新した後たった今、ページトップの「あなたへのお知らせ」である読者への記事への私のコメントのコメント(返事)に、まったく誤解されたことが書かかれててあって、愕然としたところです。
こんなことがブログ世界では起こるんだんなあと、その恐ろしさを痛感しました。
私の表現、書きかたが悪いのが原因だと思いますが、コミュニケーションというのは相手があって初めて成り立つものです。
どうか読者のみなさん、「裏読み」なさらないでください。そうしたくなるような文章を書いていたらお許しください。
(あっ、それから読者のみなさんの記事へのコメントもこれまでのようにはしないでおこうと思いました。そのこともご了解くださいね)