カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.10.6 「想像」してみるしかない

           f:id:kame710:20200815141541p:plain

 

相川祐里奈・著 『避難弱者』

という福島原発事故での高齢者福祉施設避難ルポルタージュを読み、

あらためて「想像」してみることのたいせつさを痛感した。

----ー 

東北大震災のとき、テレビは津波を実況中継した。

現実に起こりつつある津波の恐ろしさが全国に放送されていた。

 

画面では、まだ陸地から離れたところを進んでいるときはそれほど高い、

大きいとは感じなかった津波が、こっちへ近づくにつれ見るみる間に盛りあがり、

家々や車、電柱などすべてをなぎ倒し、おもちゃのように転がし、呑みこんだ。

 

画面に釘づけになり、特撮映画のような現実を受けいれるのに精いっぱいの最中に

私たちヒラの国民には想像もできなかった歴史的な大事故が起きていた。

福島第一原子力発電所「想定外」事故(専門家にも想像できなかったらしい。

ヒラに想像できなかったのはあたり前)。

 

「想定外」に大きな津波という自然災害にショックを受けているときに、同時に

もう一つの「想定外」、原発事故が起きたという。

頭が混乱し、二つの大事を受けいれるまでにどれだけの時間がかかったことだろう

----- 

水素爆発の白い煙が上がった。

(まだソ連があったころ、自由《資本主義》陣営の筆頭アメリカと共産主義陣営の

筆頭ソ連が競って核実験に明け暮れていた時代、原子爆弾より強力な「水爆」が

できたと聞いた。

「原爆」との違いは何?《疑問自体がバカバカしく思われ調べたことはない》

「水素爆発」と聞き「水爆」を連想した)

 

同じく「おそろしいことが起きた…」とは認識できても、原発まぢかの浜通り

人たちの差し迫った危機感と、他人ごとですませられる現地外の国民との間には、

越えがたい温度差があったに違いない。

(体験した人々《「当事者」》と、そうではない人々との仕方のないことで

ありはしても。

それを少しでも埋めるために、人には「共感」する力、能力があるのだろうか)

  

ーーーーーーーーーー

 本を読み終えて、

その隔絶した温度差を少しでも埋め、肌身に感じる

ためには現地を訪ねるのがいちばんだけれど、

文字や映像を通してでも具体的な事実の一片でも知り

(ニュースより深く)、感じることのたいせつさを思った

それに、「事実を記録に残す」という丹念な行為、歴史を記述するということ

たいせつさも。

(話が飛躍しますが、個人史《ネタが社会のことであっても取りあげるのは個人》

としての側面もあるブログは貴重なものだと思いました《「個人のことは

社会のこと」》

ーーーーー

本は7年前の出版。

著者相川さんは大学を卒業後、大手新聞社の記者になった。

2年たったとき東北大震災が起きた。

国策でもある原子力発電所の事故が起き、あってはならぬ大ごとなので、その年の

うちに日本の国会では初めてとなる事故調査委員会(通称「国会事故調」)が

つくられた。

相川さんは新聞社を辞職してまで、国会事故調に一調査員として参加した。

この本は、そのときの調査を元に、新たな聞き取りなどを加えて書かれた。

 

 テレビに映しだされた、避難所への移動のため

迎えにきた大型バスに乗りこむ介助されながら乗せられる)

福島第一原発近くの高齢者福祉施設お年寄りたち、

介護や看護にあたる職員さんたち。

 ほとんどの国民と同じく私も映像をみながら、

たいへんだなぁ…」と感じた。

 だが、具体的にそのたいへんの中身はどのような

ものなのか?

 映らないことは想像してみるしかないが、私の

粗末な想像力はそこまで働かなかった。

 

本はルポルタージュ形式が主なので具体的な事実の話が多く、すべてが心に残った

(のですが、一つだけ引用します)

                   f:id:kame710:20200928154756p:plain

                   (グーグル画像より) 


 【引用】

 「「今だって正解はわからない」‐高線量地域で働く職員の「いつも通り」を

貫いた思い ー いいたててホーム統括兼看護職員・山本真奈美

                   ↓

ときには職員でぶつかることもありました。

職員の中には、いいたてホームに残ると決めたものの職員がどんどんいなくなり、

ホームが継続することに自らが縛られていると感じた人もいたようでした。

 

原発事故から1年に満たないころ、全員が集まる会議の中、

「いつまでこんなことやってんだ。ホームをなくしてしまえば職員だって

身のふり方を考えられるだろう!」とリーダーでもある職員が切り出したときの

ことは、今でもよくおぼえています。

 

私はそのとき、怒っていたわけではないんですが、反射的に

「そういう人は辞めてもらっていい」ときっぱりいっちゃたんです。

ホームに入る利用の方々は、自分の意思でここに来ると決めたわけではない人が

ほとんどです。家族の都合で、本当は家にいたいけれどやむを得ずここにいる

わけで、利用者に選択の自由はないんです。

 

家族と非難したくても黙って我慢しているしかないんです。

そんな利用者さんに迷いながら介護していたらすぐに伝わります。

一番そばにいる私たちが暗い顔をして介護にあたっていては、

利用者さんが可哀想です。…

 

私たちは止まっていても、後ろ向きになってもだめ、ここにいることを決めたなら

前向きでいなくちゃ。

どうあったって利用者を守っていくんだという自分の強い意志が、

ほかの職員を率いるリーダークラスであればなおさら必要だと思います。…

 

私も、ホームへの出張健康診断を断られたときはショックでした。

ホーム内の線量は毎時0.20マイクロシーベルト程度と、線量的には低いのですが、

飯館村」というだけで行けないというのです。

このときばかりは、私たちはそんな危ない場所に利用者を住まわせていると世間に

思われているのだろうかと辛い気もちになりました。

 

震災で原発事故が起きてしまった「被災」を理由に一切、手を抜いていないという

自負もあっただけに、外から見てそんなに悪いことをしているのだろうかと思うと

どこからも見放されていくような、そんな不安がこみ上げてきました。…

 

2年間頑張ってこられたのは、一緒に戦った仲間と、ここ飯館村で頑張っている

というプライド(自負)があったからだと思います 

 

 

                                           f:id:kame710:20171029114701j:plain 

                           ちりとてちん

 

 

 

<