カメキチの目
②好き好き至上主義
(これは著者本川さんの造語)
「多様性」ということを考えると、いろいろあり、
中にはどうしても好きになれないゴキブリのように
「これはどうも…」と言いたくなるものもある。
(「好き嫌い」は食べものへの好みのようなものもあり人それぞれですが、多くの人が嫌うヘビも、飼うほど好きな方もいます。ゴキブリが平気な人も。
生物の一種である人間自身が多様な存在。
「なんで自分はこうなのか?」と若いときはよく悩んだけれど、「生まれついての
才能のなさ」も「努力嫌い」も、私という人間にあらわれた「多様性の一つ」、
つまり「個性」なのだと、このごろは心底おもうようになりました。
だから卑屈になる必要はまったくないのだと)
「多様性を尊重しなければ…」と気軽に言うけれど、
「多様性」の内には、自分の嫌いなものも含まれて
いる。
「好きな(自分が価値ありとする)ものだけ」を相手にし、
嫌いなものは避け、拒否しているのではないかと。
【引用】
私が好きなものだけを価値ありとしてそれらとだけ付き合い、お気に入りをまわりに集めて自分の世界をつくるのが理想の生き方となります。
→インターネットの世界 選好充足功利主義(これも著者の造語らしい)
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興味、趣味、関心などを同じくする人々が集うのは
「自然」なこと。
著者はなにもその自然なあり方を批判している
のではなく、「好き好き」が「至上」、神のように
絶対化されることを心配し、ほかの「自然」にも
目を向けてみようと言われるのだ。
ほかの「自然」とは、嫌いなものも含まれる
広く深い世界。つまり、多様な世界。
「生物多様性」という自然の中には苦手な、
嫌いな生きものもいる。
また、自分(人間)という生物の内には、「老」
「病」「死」という嫌いでも避けられない自然
(生態)が仕こまれている。
【引用】
私は、自身の内にも(生物)多様性がある、そして、まず自身の内の多様性を認めることができなければ、自身の外の多様性ときちんと向き合うことなどできはしないと考えています。自身の内に死や老いという、好きにはなれないものが組み込まれているのが〈私〉です。
そもそも〈私〉は多様なのです。〈私〉が続くためには(嫌いなところも多々ある)パートナーと協力せざるを得ないし、そうやって産まれた〈私〉の分身は、言うことなど聞いてくれないものですが、それも〈私〉の内の多様性でやっぱり〈私〉なのだと認めて、今の私はそれに道を譲って(いやいやであっても)死んでいくと、〈私〉はずっと続くことができます。嫌いなものも大切なのです。
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好きにはなれなくても、どちらかというと嫌いで
あっても、相手と付きあう(そうせざるを得ない場合を含めて)
関係にあれば敬意をもって対応する。それが礼儀だと
本川さんは述べる。
著者は40年かけてナマコと付きあっても好きには
なれなかった。が、
尊敬できるようになったと言われる。
【引用】
とても付き合えないと感じたものを、尊敬できるとこまでもっていくのが、この40年の動物学者人生でしたね。それでもまだナマコは可愛いとは思いませんし、好きにもなれません。好きではなくても尊敬することはできるものなのです。…