ベトナム戦争反対のデモで機動隊に追いかけられただけでも恐ろしかった。
いまはあまりデモもないし、あっても取りしまるようなものじゃないので恒常的な組織としては
「機動隊」はないのだろうか。
ふだん必要なくても必要になればつくればいい。ふだん穏やかでやさしいお巡りさんでもイザとなれば
取りしまりに狩りださられ、「仮面ライダー」のように変身するのだろうか。
絶滅が危惧されるジュゴンを犠牲にするおそれがあろうとも、辺野古の海を埋めたてをアメリカのため
アメリカ軍基地を建設を強行しようとする日本政府。
反対して座りこむ人々を排除しようと多くの警察官が出動。
その警官隊を「機動隊」と呼ぶのかどうか知らないが、沖縄県の警察官だけでは足りないらしく県外の
警察署から動員されている。
国家権力者は警官や兵士(私たちと同じ庶民)に「命令」をだし、香港やウィグル
自治区、ミャンマーで民主主義をもとめるだけの人々を警棒でたたき、殴るけり
ときには銃弾を撃つ。
生きもの(動物)次元の原始的な、はだかの暴力をふるう。
(グーグル画像より)
中国共産党の暴力の頂点のひとつは、有名な1989年6月4日の「天安門事件」。
中国本土では、翌年から毎年(現在にいたっても)この日は中国史に存在しなかった
ように扱われている。
本に紹介されていた発禁処分になっているという小説『しあわせ中国』を続いて読んだ。
一党独裁政府が「発禁」するほど衝撃的な本で、次に記事にします。
歴史をねじ曲げる。歴史の歪曲。
おそろしいことだが、時の権力が自らに都合のよいように改ざんすることは
(庶民が知らないだけで)これまでの世界の歴史ではたくさん行われてきた。
だが、現代は(ありがたいことにスマホなど最新技術をちゃんと使えば)庶民の私たちでも
知ることができる(が、一党独裁の中国では、政府につごうの悪いことはネットから消される)
国家権力のつごうで勝手に変えられるなんてとんでもない!
絶対に、「あった」ことを「なかった」(逆に「なかった」ことを「あった」)ことに
されたりしてはならない。
「森友事件」のことを想った。
私がヘビのようにこだわるのも、公文書(財務省)の改ざんが明明白白なのに
ウヤムヤにされ、歴史の闇にほうむり去られそうなことへの怒りだ。
このまま事件の幕がひかれば、まさしく「森友事件」は「天安門事件」と同じ。
「森友」を「天安門」と並べるなといわないでください。
以下、
①功利主義、②「監視社会化」のキーワードは「功利主義」と「パターナリズム」
の2点について書きます。
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① 功利主義
功利主義はかんたんにいえば「最大多数の最大幸福」。
政治でいうなら、採決の「多数決」だろうか、
「政治」は統治のうえで「するかしないか?」「AかBか?」を決めねばならない
大勢の国民を前にして、多数者(マジョリティ)が幸福と感じていても少数者(マイノリティ)が不幸
と感じているものごとがある(逆もまた真で、ともかく価値観はいろいろ)。
民主主義というのは(突きつめれば)その溝をなるべく埋めようと努力すること、
折りあいをつけようとすることだろう。
違いをちゃんと認め、違いを尊重しながら、いっぽうでは一致できるところを
辛抱づよくたえず求めつづけること。
そのために、なるべく多くの個人が納得するように、時間をかけてじゅうぶんな話しあいをしなければ
ならない。
しかし独裁は、自分につごうよく「おおかたの国民は〇〇だろう。〇〇が幸福をもたらすだろう」と
独りがつてに判断し、「最大多数の最大幸福」政策を迅速に決める。
答えはあまり迷うことなく割りきる。仕事がはやい。
国民支配・統治の方法として、独裁は「功利主義」になじみやすいのだろう。
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本の終わりごろ、「功利主義と監視社会」ということが述べられていた。
【引用】
「功利主義によれば諸個人の自由…は統治者(国家権力)が何を為すべきかに於いては…無関連…
そうした方が…幸福の総計の最大化に資すると思うならば、諸個人の自由…を侵害するような統治や
立法をよしとするだろう」
「監視こそがむしろ彼らを自由にする。…
個人の属性や行動パターンによって反社会的行動をとりそうな人たちに対しては、あらかじめ行動の
自由を奪っておくことが、違法行為を犯して刑務所に入れられる可能性を減らすので
むしろその人たちのためになる、というわけです」
(注:「」()はこっちでしました)
国家権力のいちばんの目的でもあり義務は、「統治」。
だから、統治するうえで障害になれば国民の基本的人権、自由など配慮しなくて
かまわないことになる。
広大な領土を有し14億人もかかえている中国にとって、14億人をまとめる、統治しようとすれば
「民主主義」は邪魔というわけだ。
「そうした方が結局は幸福の総計の最大化に資すると思うならば」(「最大多数の
最大幸福」)国民の自由など基本的人権の侵害はゆるされる、というのである。
そして「功利主義」の理屈、論理を統治の手段としての「監視」に結びつければ
みごとに「これ見よがしな」監視カメラの大規模設置は正当化される。
ふつう、人間は「見られている」「恥ずかしい」と思えば、人前では悪いと思う
ことや犯罪をはたらかない。
サギ、恐喝、暴行…など安全・安心をおびかす犯罪を事前にふせぎ、安全・安心を
保障してくれるかのような監視は(たとえ、プライバシーが侵されるおそれがあっても)
正しいということになる。
同じ人権であってもプライバシー権よりも安全・安心にくらす権利が優先されると
中国の多くの人たちは思うわけだ(中国の人たちだけのことではありません)。
新疆ウィグル自治区や香港での人権や民主主義の弾圧も、「功利主義」すなわち
「最大多数の最大幸福」のために正当化されている。
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現在の中国ではネット社会において「信用スコア」(年齢、性別、職業、消費行動など
さまざまな個人情報によって「信用度」を数値化したもの)が人気があり、重宝されている
とのこと。
「信用スコア」が高いということは、信頼・信用できる人物であることの一種の
公的な証しでもあるから、銀行での借りいれなどが容易で、生活していくうえで
低い人よりとても有利らしい。
じつは「信用スコア」には、儒教の国・中国の、孔子の大昔から人間世界では
「徳」がいちばん重んじられるという根源的に大きな歴史的な思想的背景がある
という。
人にいちばんだいじなものは「人徳」であり「倫理」だということ。
「信用」「信頼」の「信」は人の基礎になるものというわけだ。
中国においては、信用・信頼される人間になることが、人権を主張することよりも
たいせつなのだ。それは政治にもいえる。
そもそも孔子は道徳が政治の原理でなくてはならない、という意味のことをいい
それを政治の理想とした。
徳のある人間、信用・信頼される人間が政治をおこなうべきなのである。
習近平は(私たちにはわからないが)そういう人物なのだろう。
少なくとも彼の取りまき、政権の中枢部はそういう徳もあり、信用・信頼される人々に違いない。
だが、中国は広大なので習近平の目の届かないところで私利私欲をはかる行政の地方幹部、役人が
いるらしい。
本には習近平は中国版「水戸黄門」であり、黄門さまが悪徳商人と結託した代官、家老をさばく話と
きわめてよく似ていると述べられていた(中国ではよく地方役人の摘発がなされる)。
国民統治に最先端IT・AIなどの現代技術と中国古来の伝統的な儒教政治をあわせて行う習近平は、
中国では間ちがいなく現代の「名帝」であり、国民に支持されているらしい。
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② 「監視社会化」のキーワードは「功利主義」と「パターナリズム」
「パターナリズム」の「親が子供のためによかれと思ってすること」という
わかりやすい言い方は、儒教の国、中国の政治がよく理解できそうな気がする。
教育では、学校でも家庭でも親は子どもに向けて「こうする方がいい。
お前のことを思ってお父さん(お母さん)は言っているんだ」という。
政治では、「お前」が「国民」にかわるだけで、同じことを政治家はいう。
私のようなヒネクレ者は「思ってくれなくていいよ。自分のことは自分で決める」とかわいくない
ことを言う。
決めたことが結果的に「失敗」におわっても、自分で選択したことだから…と納得する。
あきらめるにせよ何にせよ、自分で責任をとることができるから。
習近平はいうにちがいない。
「監視社会、監視国家と人聞きのわるいことをいうが、カメラの設置は『監視』
ではなく、『見まもり』なのだ」
「国民を見まもるのは国家として当然のこと」