カメキチの目
臨死体験があってもおかしくないような事故に
遭ったけれど、「幽体離脱」には遇わなかった。
(世の中にそういう不思議があるということを聞いたことがある。
おもしろそうなので体験してみたかった。
《入院中、意識もしっかりしてきたとき、ツレが「光を見た?」と聞いたが、
残念ながらそっちもなかった》)
自分には「ない」不思議な経験・体験でも、それが
「ある」人もいる。
自分はないからといって他人もないとはいえない。
UFOを見たとかETに会ったとかの話でも、
「私はあるよ」と言う人がいれば(その人の言うことを無理に
信じる必要ないが)「そういうもんか…」「そういうことも
あるかもしれないわな」と思えばいいのではと聞いた
ことがある。
世界は不思議がいっぱいなのだ。
「幽体離脱」をしたりETに会ってみるなどの体験も
伝承にあるカラスやコヨーテと話をする、樹や草の声
を聴く、(これはインディオの人たちの話ではないが)自分は〇〇の
生まれかわりです、というのはもっと強くひかれる。
(科学文明が未発達なところでは、こういう不思議がよくみられる)
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真木悠介・著『気流の鳴る音』という文庫本を
読んだ。
(著者は社会学者。書名がエッセイ風でおもしろく思われ、若いとき買った。
いつか読もうと「積読(ツンドク)」状態だった)
題名に反して理屈っぽかったが(自分の理解力不足で細かな
ところはよくわからなかった)、生きるうえでとてもだいじな
ことを強く感じた。
それは、
現代の世の中では、カラスと話したり花の声を聴く
より、他人との関係に心をくだき、世の中をスムーズ
に泳いでいかなければならないけれど、たまには
「カラスと…」というような不思議にも心を向けて
みようということ。
それは、
自分が見聞きする現実、あたり前だと過ごしている
世界が、(そこで生きているから、そこの感じ方、思い方、考え方、価値観など
に合わせるのが合わせないより抵抗なく《なるべく楽に》生きていけるけれども)
けっして絶対的なものではないことを、頭の片隅に
おいて、ときどきは思い起こしてみようということ。
そういえば大人はときどき、幼い子どものする
ことに驚かされる。
(幼いからこそ固定観念がなく《白紙に近いからこそ》する・できる
意外なことに、大人はビックリさせられる)
「そういう手があったか…」
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著者は本の中で、私たちがもっとも人間らしく
生きていける社会はどういうものかと考えるのだが
(それが社会学者の務めであり使命)、人間個人、一人ひとりが
自分の生き方をどうするかという「人生論」抜き
にしては、「社会がどうのこうの…」と論じても
しかたない、と(「社会」に限らず)「学ぶ」ということの
根本を問うていると思った。
私たちの生きている社会は「資本主義社会」。
ここでの根本原理は「私的所有」ということだが、
それが人間が生きるうえでどういう意味を持つのか
ということを深く考えさせられた。
(私たちが住んでいる「資本主義社会」というものは、個人の「所有」つまり
「私的財産」を認め合うという合意《契約》が根底にあり、「東西冷戦」で
アメリカの勝利に終わったから、資本主義社会が人類の行き着く先というふうに
信じられがち《それに資本主義には自由と民主主義制度というものもある》、
永遠不変の人間社会の「真理」というふうに信じられそうだが、そうではない
のではないか?ということが、「人間が生きる」という根本から「所有」「持つ」
ことの意味が問われていた)