カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.1.3 『気流の鳴る音』

        カメキチの目

 

 

 臨死体験があってもおかしくないような事故に

遭ったけれど、「幽体離脱」には遇わなかった。

(世の中にそういう不思議があるということを聞いたことがある。

おもしろそうなので体験してみたかった。

《入院中、意識もしっかりしてきたとき、ツレが「光を見た?」と聞いたが、

残念ながらそっちもなかった》)

 

 自分には「ない」不思議な経験・体験でも、それが

「ある」人もいる。

 自分はないからといって他人もないとはいえない。

 

 UFOを見たとかETに会ったとかの話でも、

「私はあるよ」と言う人がいれば(その人の言うことを無理に

信じる必要ないが)「そういうもんか…」「そういうことも

あるかもしれないわな」と思えばいいのではと聞いた

ことがある。

 世界は不思議がいっぱいなのだ。 

 

幽体離脱」をしたりETに会ってみるなどの体験も

いいけれど、インディオ(ネイティブアメリカン)人たちの

伝承にあるカラスやコヨーテと話をする、樹や草の声

聴く、(これはインディオの人たちの話ではないが)自分は〇〇の

生まれかわりです、というのはもっと強くひかれる。

科学文明が未発達なところでは、こういう不思議がよくみられる

 

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 真木悠介・著『気流の鳴る音』という文庫本を

読んだ。 

(著者は社会学者。書名がエッセイ風でおもしろく思われ、若いとき買った。

いつか読もうと積読ツンドク」状態だった

 

 題名に反して理屈っぽかったが(自分の理解力不足で細かな

ところはよくわからなかった)、生きるうえでとてもだいじな

ことを強く感じた。

 

 それは、

現代の世の中では、カラスと話したり花の声を聴く

より、他人との関係に心をくだき、世の中をスムーズ

に泳いでいかなければならないけれど、たまには

「カラスと…」というような不思議にも心を向けて

みようということ。

 

 それは、

自分が見聞きする現実、あたり前だと過ごしている

世界が、(そこで生きているから、そこの感じ方、思い方、考え方、価値観など

に合わせるのが合わせないより抵抗なく《なるべく楽に》生きていけるけれども)

けっして絶対的なものではないことを、頭の片隅

おいて、ときどきは思い起こしてみようということ。

 

 そういえば大人はときどき、幼い子どものする

ことに驚かされる。

(幼いからこそ固定観念がなく《白紙に近いからこそ》する・できる

意外なことに、大人はビックリさせられる)

「そういう手があったか…」

 

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 著者は本の中で、私たちがもっとも人間らしく

生きていける社会はどういうものかと考えるのだが

(それが社会学者の務めであり使命)、人間個人、一人ひとりが

自分の生き方をどうするかという「人生論」抜き

にしては、「社会がどうのこうの…」と論じても

しかたない、と(「社会」に限らず)「学ぶ」ということの

根本を問うていると思った。

 

 私たちの生きている社会は「資本主義社会」。

 ここでの根本原理は「私的所有」ということだが、

それが人間が生きるうえでどういう意味を持つのか

ということを深く考えさせられた。

 

(私たちが住んでいる「資本主義社会」というものは、個人の「所有」つまり

私的財産」を認め合うという合意《契約》が根底にあり、「東西冷戦」で

アメリカの勝利に終わったから、資本主義社会が人類の行き着く先というふうに

信じられがち《それに資本主義には自由と民主主義制度というものもある》、

永遠不変の人間社会の「真理」というふうに信じられそうだが、そうではない

のではないか?ということが、「人間が生きる」という根本から「所有」「持つ」

ことの意味が問われていた

 

 

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                         ちりとてちん

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