カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.2.18 『日本文化をよむ』 ⑤芭蕉

          カメキチの目

 

⑤  芭蕉

 

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 はじめに引用を。

【引用】

1 西行から利休を貫くもの 

芭蕉の「無常」

芭蕉が世の無常を強く意識した人であったことは、たとえば

頓(やが)て死ぬ けしきは見えず 蝉の声という『猿蓑』の句にも

見てとることができる。…

 

2 「わび」と「さび」

わび茶

このように能た連歌茶の湯のなかで受けつがれてきた美意識、それは、

積極的な価値を否定したところに見いだされるかすかな美に究極の美を見よう

とする美意識と表現することができる。そのような美意識が「わび」と呼ばれた。

 

 

3 風雅の誠‐「成る句」と「する句」

物そのものになる

我が物となり、両者が一つになったところでのみ、物事の「微」が、

つまりその微妙な生命が感じとられる。

その生命が自ずから言葉にあふれ出るのである。そこに「誠の俳諧」が成立する…

自然の営みと一つになり、その「微」を感じとること、

そしてそれが言葉になることを意味する。

その自然の創造の営みと一つになることを、

芭蕉は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉でも表現した。…

 

「成る」と「する句」

句が「成る」ということは、…いわゆる推敲が不要であるということではない。…

から鮭も 空也の痩も 寒の内」という句がある。干からびた塩鮭と、

修行で痩せた空也念仏の僧と、ものがすべて枯れはてた冬の寒々とした景色とが

直観的に結びつけられているが、…

感じとったことがそのまま言葉になるのではなく、それを的確な表現にもたらす

ために何日も「腸をしぼる」ということがあるのである。

 

4 自然の声を聞く

よくみれば 薺(ナズナ)花さく 垣ねかな

「生活のために」という枠が外れ、それまでは見えなかったもののありようが

目に入ってくる

そこでは、物を見る目が変わり、世界の経験のされ方が変わっている

と言ってもよいであろう。

そこに見いだされる美を芭蕉は言葉にしようとしたと言える。…

しかしその詩の世界は、日常生活の価値体系の方から見れば、

逆に、それから外れたものである。その自覚を芭蕉はもっていた。…

しかし『笈の小文』の「像花にあらざる時は夷狄にひとし、

心花にあらざる時は鳥獣に類す」という言葉は、…世俗の価値意識を乗りこえた

ときに、既成の秩序のなかに立つときには見えない、もののほんとうのあり方、

そのリアリティが見られるのだ、という考え方を芭蕉ははっきりともっていた。

 

(※太字、赤字はこっちでしました) 

 

 

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 頓(やが)て死ぬ けしきは見えず 蝉の声

 

 大勢の蝉が声を合わせて一斉に鳴いて生きている

よろこびをうたうことによって逆に、岩がかもし出す

冷たく硬い感触の対比をうたった

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

 同じ蝉の声だが、これは情景全体の中の集団の蝉

 

やがて死ぬ けしきは 見えず 蝉の声

 同じ蝉の声でも、これはひとり蝉、芭蕉が蝉に

なりきっていると感じた。

 

 神や宇宙人が見たら、人間も蝉もたいして

変わらないのかもしれない。

 

俳句は学校で習ったものくらいしか知らないけれど、格言・名言のごとく

人生の真実を短く、しかし味わい深い言葉を選んで詩的に表してくれる。

いろいろ想像を膨らませてくれるのがすばらしい。

 

3年前、長野の野尻湖畔のナウマンゾウ博物館に行ったとき、そこ信濃町

小林一茶の生まれ故郷だということで、俳句の募集をやっていた。

入選すれば特産品が当たるということでナウマンゾウと遠い祖先が住んでいた

古代を想像し、詠み、応募した。

しかし、何日まっても特産品は送られてこなかった)

 

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「わびとさび」

 

積極的な価値を否定したところに見いだされる

かすかな美に究極の美を見ようとする美意識

 

 単細胞の私は「わびさび」といえば、すぐに

「ワサビ」や「サビ(金属のサビ《錆》)」を想うけれど、

同時に、冬がれの野、寺院の枯山水銀閣寺の茶室も

イメージする。

 質素、衰退…はマイナー、ネガティブを感じさせる

ものの、そんな

かすかな美に究極の美を見ようとする美意識

 

(日本の自然がもたらす四季折々の変化、その多様多彩な姿が、私たちをして

豊かな感性を育ててくれたのは間違いないが、それだけではないという気がする。

というのは、「わび」や「さび」がいいなぁと感じられるようになったのは

私の場合、昔からではない。

感性は相応の長い歳月がかかって形成されるのではないだろうか)

 

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松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ

 

 ずっと前、宮大工、西岡常一棟梁の言葉で、木は

一本づつが違う、その木の癖を見ぬいてそれに合った

使い方をしなければいけないというのを思いだした。

 木の種類という大雑把な見かただけではなく、人間

にも一人ひとりの違った個性があるように…

 

自然の営みと一つになり、

その「微」を感じとること

「微」は「美」につながる。深いなあと思った。

 蝉の声の句も、芭蕉が蝉の「微妙な生命」に

なりきったからこそ生まれたのだろう。

 

から鮭も…」のところでは、その後の文章が心に

残った。

感じとったことがそのまま言葉になるのではなく、それを的確な表現にもたらす

ために何日も「腸をしぼる」ということがあるのである

 

(「腸をしぼる」ことはありませんが、頭がよくない私《けっして謙遜ではない。

何かをしゃべったり文章を書くという行為が、身近にいるツレと比べて非常に遅く

劣っている。かといって劣等感はないですが》は、推敲にとても多くの時間を

かける。もちろん、きょうの記事にも)

 

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よくみれば 薺(ナズナ)花さく 垣ねかな

 

「生活のために」という枠が外れ、それまでは見えなかったもののありようが

目に入ってくる

世俗の価値意識を乗りこえたときに、既成の秩序のなかに立つときには見えない

もののほんとうのあり方、そのリアリティが見られる

 

芭蕉と禅は切っても切り離せない。

生活のために」などの「世俗の価値意識」に

とらわれない心に、蝉の声が、垣ねに咲いている薺が

心にとまったのだろう。そして、

腸をしぼる」ような努力をへて、

こういう五・七・五の表現ができた。

 

 

 

 

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                         ちりとてちん

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