カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.2.21 業

         カメキチの目

 

 

 前に西行のことで、こう書いた。

(人間は)「花や月を愛でながらも殺戮する」

 

その記事のBコメントの中に、敬愛している読者よんばばさんから(人間の)

「業の深さ」という言葉があった。

 

「業」は自分にとって10の気になる言葉の一つに入る

くらいの存在だ。

 ともかく身近に、たびたび感じることがある。

眠れないほどではないが、思う(意識する)としばらくは気になる。

「業」そのもの、それが深いということの、正確なとらえ方は出来ていないけど、

イメージとして悩ましいほど感じる。

 

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「業」

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ウィキペディアによると、

【引用】

業とは、カルマに由来し、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を

意味する語。仏教およびインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理に

よってそれ相応の楽または苦の報いが生じるとされる。

業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。

わかったようでよくわからない定義。 複雑なものだということはわかった。

しかし今は正確な定義はどうでもよく、「花や月を…」はよんばばさんが言われる

ように「業の深さ」が為せる業(わざ)だと思う。

本来はまったく相反する価値観(花月を愛しむと人を殺す)が同じ人間のなかに

同居するという矛盾。

 

似て非なるものだろうけどキリスト教いう「原罪」を連想した

宗教戦争という矛盾したものが合体した言葉も。

愛と慈悲を説く宗教が人を殺せよと言う。

 

業」を想うと私は(「ゴウ」という発音が似ているだけだが)

「強欲」が「業欲」に化け、花月を愛しむ心、誰にもある良心に

したがえば)これではいけない、ダメだと自覚していても

ウソをつき通す現政権首脳と取り巻きの高級官僚の

面々を真っ先に連想する。

 

「森友」「加計」に続き、「桜を…」などの虚偽・

ウソを認めず、謝罪するどころか、居直り強盗的に

「悪事」をモノともしない姿勢態度に呆れはてる。

 

このことでは、同じく敬愛している爽風上々さんの下記ブログを見てください。 

sohujojo.hatenablog.com

 

 私はこういう権力へのしがみつきを感じると、

嘔吐が出るほど気分が悪くなる

けっして言葉の比喩ではなく(慣れて吐くことは今はないが)平衡障害による

眩暈感覚の不愉快さを吹きとばすほどの気分の悪さを味わう。

権力・地位・名誉・富などの欲望は強いか弱いか違うだけで、私を含めて多くの

人間にあると思うが、それにしがみついてウソをつき、ウソと事実の矛盾を突かれ

指摘されても「知らない」とばかり言い続け、説明責任をとろうとはしない。

(責任を取れば現職を退く、つまり権力・地位・名誉などを手放すことになる)

 

世間では新型コロナウィルスの感染騒ぎのような国民が関心を持つニュースが

絶え間なく発生し、ウソつき事件は忘れ去られる。彼らは国民が忘れ去るのを忍耐

強く待つ。

私たち国民はそういう「持久戦」術にまんまとはまり、「諦め」を知る

  

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 上記のようなものを外面的なものとするならば、

私は「業」には内面的なものがあると思う。

 それは、「花や月を愛でながらも殺戮する」という  ような「(いまの)私にはできない。ムリ」なものでは

なく、ごく普通、一般的に誰にもあてはまるもの。

「もっと、もっと…」という足るを知らない心である

 

「競争」「闘争」は、すべての生き物に共通してあり

ライオンでも腹が減り、生きるために弱い動物を

(しかたなく)襲う。

 けれど人間だけが、生存には必要がないのに、

もっとたくさん食べ、もっと美味しいものを食べ、

「もっともっと…」が際限なく続くために、

同胞さえ殺す。

 

「これでいいよ」と満足(ということは感謝し幸せを感じること)

することなく、無限膨らみ続ける「欲望」は、

人類の「業」といってよいと思う

     ↓ 

 人間の身体そのものでは遺伝子やゲノム解析など

バイオ技術でどんどん寿命を延ばし、身のまわりでは

「これでもか、これでもか…」と便利で快適な道具・

機械が出てくる。AIやロボット の技術は果てしなく

続いていく。

いずれヒトの身体にAI、機械が組み込まれ、人間とロボットが融合した

サイボーグが実現すると思う。

 

 旅に出ると人生についていろいろ思う。

 鉄道やバスなどに揺られ、移りゆく風景をのんびり

楽しめば、その地に生きる人々の暮らしも想う。

 その土地、その家、その時代に生まれ、

生きるほかない人間(だけでなく、すべての生命あるもの)

「宿業」というのは前世の因果応報を説く仏教の教え

だが、「前世」に関心のない私でも、そういう「業」

も思う。 

 

 

 

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                          ちりとてちん

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