カメキチの目
可 及 其 智 不 可 及 其 愚
(そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず)
私の読んだ本は、こういうことが述べられていた。
知識はいくらでも積めるし、賢くもなれる。多くのことを知り苦行難行を
積めば、それだけのことがあるかも知れない(ないかも知れない!)
それを「智」と呼んでもいいと思われるが、ただ、それで悟りにいたっても、
悟りを得たという自我を捨て去らなければ真の悟りとはいえない
誰だって、悟りの臭いがする「智」の人にはなれるが、
それを少しも感じさせない人になるのは、本当に難しいのだと思う
良寛は「大愚良寛」、親鸞は「愚禿(愚かな坊主)」と自らを称したが、
人間とか人生の何かについて「悟る」まで考え実践した彼らは己の存在の
小ささを、雄大・悠久なる自然を前に実感せざるを得ず、その気付きを決して
卑下するのじゃなくただ謙虚になり、それで「愚」と名乗ったのだろう
(直接の引用ではありませんが、ほぼそういうことが書かれていて、うなずく
ばかりでした)
初めてこの禅語にふれ、ガーンときた。
その含蓄の深さ、重さに唸ったほど。
そのときはそれほどの衝撃を受けても、凡人の私は
数日たったら忘れており、10数年ぶりにここブログに
書くだんになって思いだした。
自分のことをそのように名乗る、そこまで
自覚する(卑下ではなく謙虚)とは…
限りなくAIやロボットが人間に近づいても、
科学・技術と人間の分け目の究極はこの禅語にある
のではと思った。