カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.12.24 「可及其智 不可及其愚」

          カメキチの目

 

 

   可 及 其 智  不 可 及 其 愚

     (そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず)

 

 私の読んだ本は、こういうことが述べられていた。

 知識はいくらでも積めるし、賢くもなれる。多くのことを知り苦行難行を

積めば、それだけのことがあるかも知れない(ないかも知れない!)  

それを「智」と呼んでもいいと思われるが、ただ、それで悟りにいたっても、

悟りを得たという自我を捨て去らなければ真の悟りとはいえない 

誰だって、悟りの臭いがする「智」の人にはなれるが、

それを少しも感じさせない人になるのは、本当に難しいのだと思う

 良寛は「大愚良寛」、親鸞は「愚禿(愚かな坊主)」と自らを称したが、

人間とか人生の何かについて「悟る」まで考え実践した彼らは己の存在の

小ささを、雄大・悠久なる自然を前に実感せざるを得ず、その気付きを決して

卑下するのじゃなくただ謙虚になり、それで「愚」と名乗ったのだろう
 
ふーむ  らかんさん

 

(直接の引用ではありませんが、ほぼそういうことが書かれていて、うなずく

ばかりでした)

 

 初めてこの禅語にふれ、ガーンときた。

 その含蓄の深さ、重さに唸ったほど。

 

 そのときはそれほどの衝撃を受けても、凡人の私は

数日たったら忘れており、10数年ぶりにここブログに

書くだんになって思いだした。

 

「大愚良寛」「愚禿親鸞」。

自分のことをそのように名乗る、そこまで

自覚する(卑下ではなく謙虚)とは…

 

 限りなくAIやロボットが人間に近づいても、

科学・技術と人間の分け目の究極はこの禅語にある

のではと思った。

 

 

 

                       f:id:kame710:20171029114701j:plain

                           ちりとてちん

 

<