カメキチの目
夕方、テレビ体操を日課としてやっている。
これまでいろいろな運動を試みたが、今はこれに落ちついている。
(入院していたときリハビリで教わった運動《それに飽き》、足首に重りを
撒きつけ脚を上下に動かす運動《それにも飽き》、階段歩きにも飽いた。
いろいろ試したがすべて長続きしなかった。
しかし、別にやっている軽い運動→ダンベル上げ下げ、握力バネ健康器具開閉運動
《それぞれ1分間くらい》は続いている)
「テレビ体操」にはラジオ体操も入っている。
ラジオ体操はやさしい。ピアノは心地よい。
それでも私の平衡障害は眩暈がありフラフラ…。正直つらい。やめたくなる。
(が、ひとりじゃないのでやめられない)
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テレビ体操を始める直前、20分くらいの午睡(至福の時間)をとっていた。
眠っていなくても、身体を横たえているだけで至福!
至福の20分間はすぐ経ち、意を決して起きあがり、体操モードに移るが、
その切りかえは(決して大げさな表現でなく)「地獄におちる」気分だった。
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(というわけだったので)先日、夕方の午睡はやめた。
地獄の気分を味わないため、体操中の気分の悪さや
身体のぎこちなさを少しでも軽減するために。
次に本題に入ります。
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夕方の午睡をやめると決めたとき、「慣れ」と
「最初の一撃」という言葉が頭をかすめた
■「慣れ」はとてもたいせつ。
どれほどたいせつかを身体障害者になり痛感してきた。
その障害が「後遺障害」と呼ばれ、固定した治らない病・障害ならば、いかに治療
訓練しても身体が元に戻ることはない。
(しかし、奇蹟が起きて元に戻るか、かなり改善することもあるようです。
私も奇蹟を信じて10年、「ごしんじょう」と呼ぶ箸ほどの金棒《延べ棒では
ありません》で頭を撫で「気」の流れをよくするという民間療法を惰性で続けて
いる《ごしんじょうが高価だったのでやめたらもったいないのだ》)
自分の障害を少しでも軽快なものにしようとするならば「慣れる」、言いかえれば
うまく「つき合う」「受けいれる」「共存」(コロナへの関係にもいえそう)が
たいせつだ。
退院後しばらくは「最近、どうですか?」「少しくらいはよくなりましたか?」と
声かけられた(いまはまったくかけられない)。
そんなとき返す言葉は決まっていた。
「これ以上よくなることはないと思います。現状維持が精いっぱい」
(たまに付けたすこともあった。「《平衡感覚を司る神経が切断していても》
代替神経ができ伸びる可能性もあるらしいから、運動《訓練》ガンバります」と)
健康体のとき、動作の切りかえは滑らか、スムーズに行えた。
(それが「普通」なのである)
ところが私の障害ではうまくいかない。
動作の切りかえには、次の動作を受けいれる(慣れる)ための態勢づくり
(私の場合は眩暈が落ちつき、フラフラせず立位姿勢を保つ)をはさまないと
いけない。そうしないと、よろけるか転倒してしまうのだ。
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■「最初の一撃」(「ビッグバン」を連想する)。
物事はなんでも「始め」「起こり」「生成」がある。
内心は怠けたくあっても、「よし!体操を始めよう」という心(気)がまえは
「最初の一撃」「ビッグバン」であり、とてもたいせつなことだと思った。
(あたり前のことがたいせつなのだ。その「あたり前」に新たに気づくことに
終わりはないということを、老いて気づいた)
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と、ポジティブなことをここに述べてみたが、
私の実態はネガティブに近い。
「なんでブログを?」という記事を前に書いた。
そのときの「自分のため」には「自分を励ます」
という意味も含んでいる。
できたら臨終にあたっては「有終の美」を願わなくもないので、こうして
自分自身を叱咤激励する。