という本を読んだ。
映画『おくりびと』(2008年)の原作(『納棺夫日記』1996年)の続編みたいな
書名ですが、『納棺夫日記』で著者がいちばん伝えたかった宗教の心が映画では
描かれなかったので、映画から6年目にして(『納棺夫日記』からは18年目)
あらためて著者が述べたかったこと、宗教心を持つことが人生においてどれほど
だいじかを(僧侶ではないがもっとも近いところで死をみる死を扱う者として)
伝えたくて執筆されたもの。
本のはじめに(上述のようなこととともに)映画の主役を演じた本木雅弘さんを
褒めたたえる言葉が書かれてありました。
(「伊右衛門」茶のCMのあの人。新たな本木ファンになった)
そもそも『おくりびと』は『納棺夫日記』を早くに読んで感動し、ぜひとも映画化
したいとの本木さんの発案から始まったとのこと。
彼は富山在住の青木新門さんを直接たずね、映画化にこぎつけた。しかし、…
じつはそのとき映画化の許可条件として、原作と著者の名前は明かさない(映画に
入れない)とあったのでした。
(映画は原作とは違った描写・表現がいろいろあったけれど、作品の評判はとても
よく、青木新門さんも称賛された)
本には納棺夫をするまでの青木さんの人生を感じる話もたくさんあり、人の死体を
相手にする仕事をするようになったのはまったくの偶然で、もともとから宗教心が
篤かったというわけではありません(私たちと五十歩百歩の宗教心)。
納棺夫という仕事を続けるなかで、なまの「死」を見つづけるうちに、仏の教えを
自らの肌身で感じていかれる。
著者の言葉が、あたり前のようなことでも、とても 新鮮に感じられました。
以下、著者の言葉を引用し、四つ書きます。
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① 納棺夫の仕事
【引用】
死を恐れ、死に対して嫌悪感を抱いていては死者に優しく接することなどできない
ということ。すなわち生死を超えて対処しなければ、納棺夫の仕事は務まらない
ということ。…
(死の現場での体験から)あらゆるものが輝いて見える
生と死が限りなく近づくか、生者が死を100%受け入れた時、
あらゆるものが差別なく輝いて見える瞬間があるのではないだろうか。
しかしそんな世界は、われわれ生者には見ることはできない。…
(注:赤字はこっちでしました)
私は「納棺夫」という職業、仕事を想像もしたことが
なかった。
(故郷は田舎の集落だったので、誰かが死ぬとみなが協力しあい葬儀を行ったので
葬儀屋に任せることはなかった)
義母が重い病気になったとき、最後までちゃんと世話し自分が看取りたいとツレは
休職し看病に当たっていた。亡くなるとき、そばにたまたまちょうど私もいた。
亡くなってすぐに近所のかかりつけ医を呼んで死亡確認をすませ、続いて男性では
なかったが(そのときはまだ「納棺夫(士)」という名称も知らなかった)中年の
ベテラン納棺婦さんが依頼した葬儀屋さんから駆けつけ、ドライアイスで体を
冷やしたり、水を含ませた綿で顔を拭いたり整えたり化粧したり、白装束に着替え
させたり…。
それらさまざまな作業がほんとうに手際よく、心をこめていねいにされるのが身に
しみてありがたかった(こちらが悲しみに打ちひしがられているからというだけ
ではないと思われた)。
横たわった義母の姿とともに、あの納棺婦さんの
黙々と心をこめて自らの仕事を遂行される姿が、
いまも目に浮かぶ。
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② 区別・差別
【引用】
〈生と死の区別〉
科学的合理主義の欠陥は、分けて思考する癖がつくことではないだろうか。
丸ごと認める力がなくなってしまうのである。…
今日のわが国の社会は、ヨーロッパ近代思想のヒューマニズムを基礎とした
科学的合理主義…ヒューマニズムを日本語に訳すと「人間中心主義」…
そこには、人間に都合のよいものは善とみなし、都合の悪いものは悪とみなす。
人間中心の科学的合理思想は、…この世の事象を分けて考える思考を生み、
トンボとゴキブリを分けて考えるようになり、トンボはかわいそうと思うが、
ゴキブリは叩き殺しても心に痛みも感じなくなった。
生と死も分けて考えるようになり、生に絶対の価値を置き、死は悪とみなし
排除するようになったのである。
その分別知の延長線上に、差別やいじめ、自殺や他殺、テロや戦争を誘発する
要因があるように思えてならない。
その分別知に欲望が憑依した時、一層危険な状況を生む。…
(注:赤字、太字はこっちでしました)
たぶんゴキブリは、ヘビなど爬虫類をおおかたの人が気もち悪い、怖いと感じる
のは、よくいわれるように大昔の記憶がヒトの遺伝子に閉じこめられているのでは
ないかと思います。
原始の大昔、ヒトの祖先は恐竜や爬虫類に怖い目に遭わされた。またゴキブリは
大昔の生き残りのような動物の姿と動きを感じさせる。
私は、「その分別知に欲望が憑依した時、
一層危険な状況を生む」という言葉に、ハッとした。
「分別知」とは分けて、つまり区別して考えたことで
ある。しかし、
「区別」しているのか、「差別」しているのか、
分けるのはむずかしい。
(差別している人が、「これは〈区別〉であって〈差別〉じゃない」と言う。
イジメしている者が、「あれは〈遊んでいた〉わけであって〈いじめ〉じゃない」
と言う。
両方の言いわけの何と似ていることだろう)
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③ 他のいのちを食って私は生きている
【引用】
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ。
浜は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらひ
するだろう。 金子みすず
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④ 死の実相
【引用】
私は死の実相は、死の瞬間にあると確信するようになっていた。…
死後硬直の進展は人によっては時間差があるが、通常は二時間程度の経過で徐々に
脳から内臓、頸や首から硬直が始まり、半日程度で全身に及ぶという。…
この硬直が始まる前の二時間以内に死者の顔を見た人と硬直した顔を見た人の、
死に対するイメージがまったく異なるということである。…
セネカの言葉「死自体よりも死の随伴物が人を怖れさす」
(注:赤字はこっちでしました)
私はとくに「死に顔」を思った。
「いい顔しているなあ」「ちょっと笑っているようだ」と言われたいものだ。
死んだことはないのでわからないが、いくらそのときが痛くても当人には瞬間の
ことなのでガマンして、看取ってくれた家族たちには安らかな顔したいものだ。
と思っていたら、死んでから2時間以内なら穏やかな顔をしているとのこと。
こっちはすでに死んでいてどうにもならぬので、親しくて近くに住んでいる人たち
には2時間以内に駆けつけてほしい。
と思っていたら、
そういう人たちはほとんどいないことに気がついた。