死ぬこと生きること。
立派に(「な」ではなく「に」)「老人」と言われる、見えるまで長生きしている
と思っているので生き死にの問題はクリアした(という気がしている)。
(「クリア」というのは「死を親しく感じるようになった」というくらいの軽いものです。
50半ばで障害は遺ったけれどいのちも残るという「不幸中の幸」を体験したことは決定的だった)
しかし、生死ということはいまになっても関心は尽きない。
というのは、前記事の「オートポイエーシス」で、人間も細胞のように
完結しており、生きている「当事者」個人としては、「生きている」こと
そのものにおいて、意味も目的もいらないけれど、社会・人類の一員、
人間としては生存していることの意味や目的を求めたいから。
『日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ』島薗進・著
(グーグル画像より)
を読んだ。
島薗さんのものはずっと前、『いのちを“つくっても”いいですか?』がある。
(それを読んだのは2016年の秋のこと。「いのちとは?」と考えることがあまりに多く、何回かに分け
記事にした。
『日本人の死生観…』は自分の読むものによく紹介されていたので読むことにしたのです)
読んでほんとうによかった。
二つだけ書こうと思います。
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① 志賀直哉の『城の崎にて』。
(グーグル画像より)
「にて」という作品名の表現が印象的だったことに加え、とても短い小説と知り
好奇心から大むかし読んだことがあった。
が、若いときのことでもあり、何が書いてあったのかほとんど忘れていた。
主人公(作者)は死んだかもしれない交通事故に遭ったが、運よく生きのこった。
その後遺症を癒すため「城の崎にて」療養する。
そのとき見た死んだハチの話。
あるハチが死んだが、他のハチたちは見向きもしない。
ある日の朝、ハチの死体は雨に流されたのか、きれいさっぱりそこにはなかった。
死にゆくネズミの話。
串に刺されているが、まだ死なないネズミが川に流されていた。
必死に泳いで岸に這いあがろうとしているがうまくいかない。
それを人々がおもしろがって見ていた。
そのうちネズミは力つき果て、死んだに違いない。
そして、イモリの話。
イモリを見ていて、たまたまそばに小石があったので拾って投げた。
(まったく狙ってはいなかったのに)投げたその小石、たまたまそのイモリに当たり、
イモリは死んだ。
自分は(そのつもりがなかったとはいえ)イモリを殺したのである。
それぞれの生きものの死を見て、その事実と作者の思いが書かれただけの
ごく短い話。
(私は『イカの哲学』の「実存」を思いだした)
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死は死でも、ハチやネズミやイモリの話とはまったく違う世界。
先の戦争で日本はほぼ確実に負けることがわかっていたのに、国民を支配・
命令する者たちは、「特攻」(「玉砕」)を思いついた。
(「特攻」。爆弾となって体当たり。ほぼ確実に死ぬことを命令される。命令された者にとって、
「死刑宣告」とどこが違うだろう。
たかが一部の司令官たちの思いついた作戦、命令とはいえ、これほど卑劣きわまりないものを…
と考えると、同じ日本人としてたまらなく恥ずかしく、恐ろしくなる)
「特攻」は飛行機(他には「回転」という人間魚雷)だけかと思っていたら、違った。
「戦艦大和」という軍艦はその華麗な姿とともにあまりに有名だったので、
名前だけは子どものときから知っていたけれど、活躍ぶりはまったく聞いたこと
なかった。
(グーグル画像より)
それもそのはず、活躍する前に沈んでしまったのだそうだ。
沈むのはわかっていて、出て行ったのだそうだ。
もう活躍は絶望視されていたころ完成し、本土を出港(出撃)し沖縄へ向かう途中
まだ少ししか進んでいないというのに、ハチの群れのような相手飛行機によって
沈没した。
ウィキペディアによる【引用】
「大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、
史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した 超弩級戦艦…
昭和20年(1945年)4月7日、沖縄海上特攻作戦に旗艦として参加し、アメリカ軍艦載機約300機に攻撃され
坊ノ岬沖で沈没した」
‐戦艦大和の「特攻作戦」について‐
撃沈される可能性が極めて高いことがわかっていて、戦艦大和は出ていった。
だが、出港(出撃)するかどうかの決定が出る前には、乗組員、とくに士官の間では大激論があった。
そのときの吉田満さんが尊敬する臼淵大尉の言葉。
【引用】
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイフコトヲ
軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レヰタ 敗レテ目覚メル、
ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ」
(『イカの哲学』の波多野さんと同じく、やり方は違っても、自分は生きのこったということに
こだわり続け、彼らの死を「無駄な死」にさせないために、平和のための活動をされた)
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「実存」。
(人間の自分だけではなく、ハチもネズミもイモリも。トンボだってアメンボだって)
生きているという事実に気づき、感じ、それを尊ぶ。
「生」はすばらしいけれど、「死」もまたよし。
ともかく二つはコインの裏表、合わせて思わなければならないのだ。