(グーグル画像より)
この本は鶴見俊輔さんが各界で地道に活躍されている何人かの方との対談集。
対談されているようなことが新しい文化、風土になってほしいとの
願いが込められている。
鶴見俊輔さんといえば、ずっと前にここでも書いた(2020.8.11)言葉が
とても印象的で、いまもときどき心に浮かぶ。
「どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。
赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。
…
人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね」
(そのときの記事からその箇所《鶴見俊輔さんの引用文》だけを抜き書きします。
ーいま家族とはー
この場合家族というのは、夫婦としても、驚くべき仲のいい夫婦なんですが、
それでもお互いに見知らぬものとして終わる。…
自分が、やがては家族にとっても「見知らぬ人」となる。
そして「物」となって終わる。死体は物ですからね。
物になれば、宇宙のさまざまなものと一体になるので、
そんなに寂しいわけないんですよ。存在との一体を回復するわけですね。
どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。
赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。
たいへんに有名です。家のなかで無名の人っていないです。
それは、たいへんな満足感を与えるんです。…
人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。
そのときの「有名」が自分にとって大切なもので、
この財産は大切にしようと思うことが重要なんじゃないですか。
最後は、お互いに見知らぬ人になり、そのときには家族のなかでさえ無名人です。
やがて物になる。人でさえない。そのことを覚悟すればいいんです)
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「鶴見俊輔」という名を初めて聞いたのはずいぶん昔、若いときだった。
その当時、アメリカがしかけたベトナム戦争(その前にアメリカは朝鮮戦争もしている。
現在のウクライナへしかけたロシアの「お手本」のようだ)に反対し、
そのためにつくった市民団体「ベトナムに平和を市民連合」(通称「べ平連」)
の中心的な一人として活躍されているころだった。
その後だいぶんしてからは、日本国憲法第九条の改悪阻止のため、
著名な九人の人たちの一人として「九条の会」を結成してご活躍された。
(「著名」「有名」といえば学者、作家というかたいものより歌手、俳優、スポーツ選手…など
大勢いる。こんな人たちが「声を上げればなぁー」と、どれほど思ったことか。
自分が有名人だったらなぁーと、どれほど思ったことか
《あっ、「どんな人でも、家のなかでは有名人」だった》)
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鶴見俊輔さんご専門の思想関係の本は私には難しすぎてダメだったが、
この本は一般の人向けなのでわかりやすかった。
なかでも、故郷の鳥取で「野の花診療所」というホスピスケア中心の
地域の人たちのための医療活動をされている徳永進医師との対談は
ほんとうによかった。
「生き死にを学びほぐす 徳永 進
〈「あきらめていく力」が減っている〉
日常のくらしというのはそれだけ、すごいんだ。…
「死の野郎がもうちょっと遅く来たらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しようがないかな」と
どこかで手を打つ。死と取引できたりするんですね。…
マニュアルにないことが大事…
人はそれぞれに死に方がある…
(草野心平の言葉)「いいさ、死んだら死んだで生きてゆくさ」…
老いが死の恐怖を弱めるのは確かでしょう。…
〈死に臨む人の言葉をくみ取る〉
(徳永さんが自分でもガンだとわかっている患者さんに告知をするかどうか悩んでいたとき、
医者としてはガンであるという事実を言うのが「正しい」かもしれないが、徳永さんは、
その患者さんは信頼している自分にガンでないと言ってもらいたいとわかっているので
優しく「ガンではありませんよ」と言う)
→アンラーン(学びほぐす)ことのたいせつさ」
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■ 「あきらめていく力」が減っている
「生」は放っておいたら、自然・本能に任せておいたら、「生きよう」の方向に
進むから、「死」を感じたら「生」を「あきらめる」ための力が必要になる。
日々をていねいに一生懸命に生きたり、自分の好きなやりたいことに挑戦したりが
できておれば、「どこかで手を打つ。死と取引できたりする」
で、草野心平みたいな「いいさ、死んだら死んだで生きてゆくさ」
という境地にもなれるのかなあ…
(「いいさ、死んだら死んだで生きてゆくさ」たぶん、忘れない)
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「アンラーン」とはネット検索によれば
「すでに持っている知識や価値観などを破棄することで、思考をリセットさせる学習方法」
「死に臨む人の言葉をくみ取る」場合のような医療だけの話だけではなく、
どんな行為にも「こういう場合は、こうするのが正しい」
「人は正しいとされていることをすべき」
というような教科書、マニュアルにあるような、
自分の頭で考える必要のない規格、基準にのっとった「常識」がある。
果たして、それに従順に従うべきなのか?
長い人生では、そう問うてみなければならない出来事が起きる。
そのとき、自分の頭で考えるようになりたい。
ご自分の患者さんが「死に臨む人」になったとき、
その方が安心して旅だっていかれる手伝いをできる医師になることが
徳永進さんの目ざすことだということを痛感した。
(もちろん、その「死に臨む人」との信頼関係が徳永進医師との間に築かれていてこそのこと)