最後です。
この本は〈思考〉〈環境〉〈世界〉…といった概念がよく使われ、抽象的な議論が
多いので脳を酷使する。ちょっと疲れ、続けて読むのがイヤになった。
けれどもガマンし、大切なことが述べられていると思い、ムリして読んだ。
(ガマン、ムリをしてでも読んでよかった)
今日のところでいちばん深くうなずいた部分は
「私が存在することの自明性について」の部分と、
その私(自分)というのは、(あたり前のことですが)必ず「肉体」をともなっている
ということ。
私のこの「肉体」は、私でしかあり得ないという事実。
「〈私が存在することの自明性について〉
「死」も「私が存在することの自明性」も…私たちの中に定着させることのできない次元のもの…。
→(考えても考えても考えきったことにならない。つまり、「リアリティ」を持てない)
「ない」(無)それ自体を認識することはできない。「ない」とは「何かがない」状態なのだ。
これが「死」という完全な「ない」の状態を私たちが実感することを絶望的に難しくさせている。
…
「死」というのが、言語によって記述することが不可能であったり、
私たち自身によって実感することが不可能であったりするものなら、
それは言語という体系=秩序の外にあるということなのだ。
…
「私が宇宙でない」ことと同じように、「自覚なしに『生きている』ことが幸福である」ということも
絶対に忘れてはいけない。…
人間の「意識」や「自覚」がこのように生体の一部でしかないということはやはり重要で、
一部でしかないからこそ人間はとてつもなく漫然と生きていることができる。…
「机がある」「電柱がある」の「ある」ではなくて、「『ある』がある」ということなのだ。
言葉を換えると、「『ある』を成り立たせているもの」「『ある』をあらしめているもの」が、
〈自明性〉の「ある」なのだ。…何しろ「ある」は放っておいたも「ある」のだから。…
「死」が〈秩序〉の外で起こることだとしたら、「生きている」ことは〈秩序〉それ自体
ということになる。
人は生きているかぎり、「『ある』をあらしめている」状態を消し去ることができない。
「見える」ということは「ある」を見ているのではない。
「『ある』をあらしめている」ことを見ているということだ。
というか、「見える」とはきっと「『ある』をあらしめている」ことなのだ。
同じように、「聞こえる」ということもそのまま「『ある』をあらしめている」ことなのだ。
「私の肉体が現にこうしてある」ことの〈自明性〉というのは怖るべきもので、
「ない」という否定が入り込む余地がない。→(〈絶対の肯定〉)
…
「生きている」ことは自明ゆえに語ることができない。
その自明性を突き崩さないかぎり「死」を語ることができない。
自明性は突き崩されないので、「死」は語れない」
「〈私の肉体〉
言語と人間は同時に生まれたのではなくて、人間の肉体が言語に先行して存在した。
…
「見える」(see)によって世界が存在をはじめてから、「見る」(look)という行為が可能になる
…
人間というもの…つねに自‐他が厳密に分離した状態を生きているわけでもない…
人間同士の思考や運動能力といった一定の秩序の中で起こる差は、つまるところ言語的な側面なので
「ない」と言ってしまったら「ない」。→(同じ人間同士、比較可能なものは大差はない)
しかし〈私〉のこの肉体となると…まったく別だ。…
〈私〉のこの肉体だけは、〈私〉にとって奇跡だ。
なにしろ〈私〉のこの肉体がなかったら、そもそも”差異の体系”(「他人との違い」の全体)自体が
起こらなかったのだから。…
〈私〉がこの肉体を持っていることを奇跡と感じることは、そのまま、〈あなた〉や〈彼〉や
〈彼女〉が肉体を持っていることを奇跡と感じることになる。なぜなら、…〈あなた〉や〈彼〉や
〈彼女〉の肉体を圧倒的な現実として受けいれたことの方が先にあって、
〈私〉の肉体こそが最後にやってきたのだ。…
肉体は微差で言語に先行したが、その肉体に世界が微差で先行していた」
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〈私が存在することの自明性について〉
くどかった。しつこい話だった。
しかし、考えてみれば「くどい」「しつこい」のは、あたり前なのかもしれない。
自分が存在、生きているという自明の、それこそ「あたり前」の事実をあえて
問えば、さまざまないい方が出来る。
(人間は「古今東西」、「人間とは?」「生きるとは?」と問い、いろいろなことをいってきた。
自明の「あたり前」の事実にあえてこだわる人間もいるのだ。
私も人なみに思春期のころから思い考え悩んできたけど、老いてもわからない。
「わかるはずない」と思っているが、わかりたくていまも飽きずこんな本を読む)
「考えても考えても考えきったことにならない。…「リアリティ」を持てない」
どれほど考えたって、これぞ!という「リアリティ」の感じられる答えには
たどり着けない。
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考えたこと、思ったことは(伝える相手が自分であれ他人であれ)言語であらわすが、
私が「存在すること」の反対、死んでいては言語であらわせない。
で、「死」は「言語という体系=秩序の外」にあるというわけか…
なるほど!
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「自覚なしに『生きている』ことが幸福である」
ホント、そう思う。
(正確にいえば)そういうことそのものを時々、自覚してみなければならない。
(が、それは幸福という状態ではあっても、幸福という感情は自覚してみなければ生まれない)
この後、「ある」「ある」話がしつこく続く。
その後の、
「私の肉体が現にこうしてある」ことの〈自明性〉というのは怖るべきもので、
「ない」という否定が入り込む余地がない。→(〈絶対の肯定〉)」
というのには、絶対に肯定したくなった。
その後の、
「「生きている」ことは自明ゆえに語ることができない。
その自明性を突き崩さないかぎり「死」を語ることができない。
自明性は突き崩さないので、「死」は語れない」
というのも、絶対に肯定したくなった。
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〈私の肉体〉
ここを読んで、
「身体が先か?精神が先か?」との二元論がよくいわれるけれど、
ここで〈肉体〉を考えてみれば、それはどっちも含んでおり、
「先か後か」という次元の問題ではない、それを超越していると思った。
すべては、この〈私の肉体〉から発している。
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私たち人間は、何らかの一定の秩序(たいていは法)、つまりルールのもとに
生きている。
そのルールのもとでは同じヒトとしてたいして違い、差はない。
がしかし、大差なくても、この「〈私〉のこの肉体だけは、〈私〉にとって奇跡」
なのだ。私には絶対的なのだ。
「なにしろ〈私〉のこの肉体がなかったら、そもそも”差異の体系”
(「他人との違い」の全体)自体が起こらなかったのだから」
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最後。
「肉体」というものはヒトそのものだが、私が見たり、聞いたり、感じたり…etc
する、できるには、(順番からいって)先に他人、対象とする世界が存在していて
いなくてはならない。
つまり、「〈私〉の肉体こそが最後にやってきた」ということ。
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この本には悩むほど考えさせられたけれども、ほんとうに読んでよかった。
「肉体」というちょっと生なましいものを、これほど重く感じたことはなかった。
保坂さん、「肉体」に目を向けさせてくれてありがとうございました。
ふたたび最後に、
「〈私〉のこの肉体」という「あたり前」を、あらためて「奇跡」と感じた。