続き。
これで終わりです。
【引用】
⑤「その目に見えない贈り手に(ヤーヴェと呼ぼうと、アラーと呼ぼうと、阿弥陀如来と呼ぼうと)、
底なしの善意を感じて生きる。
あちらからの一方的な善意(アガペー)を露疑わずに生きる。
そのとき、「安らぎ」があるであろう」
…
⑥「(仏教の「不二の思想」)
分けるというのがだめなのである。
死を恐れてはだめなのだ。
われわれは、今は生きていて、まだ死んでいないと言うが、実は、生と死はひとつのものなのである。
私と他人が別れていて、他人を愛するとか、他人を憎むとか、…争うのは、分裂の世界に住んでいる…
本当はその分裂しているのが嘘なので、私と他者は根本のところではひとつだ、
と分かるのが悟りを得るということなのである。…」
…
⑦「生きるということが神の働きによって成り立っている…
どんな命でも、どんな生でも(どんな死でも)、それは知られざる根源から贈られてきたものであり、
われわれ自身の手中にないものであり、
換言すれば、神の働きによって成り立っているのだから、それ自身が恩恵なのだ、と考えて、
われわれはがんばるのだ。
束の間でも生きるということ自身が恩恵なのである。…
偶然に遭遇する悲劇の意味は分からないと覚悟して…人間は生涯偶然の打撃に曝されていることを
しかと覚悟して、残された生命を生き抜くのである」
…
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私は「神」(絶対者のこと)や「信仰」とは、ほとんど縁がなく生きてきた。
たぶん、それは既成の宗教には近づく具体的なきっかけ(縁)がなかったからで、
宗教的な感覚は人間の本源的なところから生まれている気がする。
(思春期の多感なときは茫漠とした不安におそわれ、自分だけの「神」のようなものを想像し、
おまじないのようにすがったことがあったのをいまも覚えている)
たいしたことなくても、いろいろな体験をし経験をつんだ今は、宗教の必要を
強く思うようになった。
まだまだ「信仰」というレベルには達していない(性根がすなおでない)が、
「信ずる者は救われる」の境地を目ざしたい。
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⑤
「一方的な善意(アガペー)」を感じてばかり生きれれば、
どんなに「安らぎ」ある人生であることか、とため息つきたくなる。
でも、その善意は神(絶対者)によるものであって、人間の善意ではないことに
注意をはらえばうなずける。
ときどきテレビで笑っておられような穏やかな顔をしたお年寄りをみて憧れる。
きっと辛いことや悲しいことがあり、悪意にも遭遇したが、
「あちらからの一方的な善意(アガペー)を露疑わずに生き」てこられたのだろう。
⑥
「分けるというのがだめ」も「本当はその分裂しているのが嘘」という
仏教の不二の考え方は、「生即死」ともいうし、理解できるけれど頭のうえでの
ことでしかない。頭を超えようとするのなら身体しかない。
修行が重んじられ、悟りを得るのはそういうことだろうが、僧侶にならなければならないし、
誰でもできることではない。
誰でも極楽浄土、天国、神仏のもとにいけるよう他力信仰が生まれたのだろう。
(他力はキリスト教に近いといわれるわけ)
⑦
「偶然に遭遇する悲劇の意味は分からないと覚悟して」
「人間は生涯偶然の打撃に曝されていることをしかと覚悟して」
生きなければならないことを痛感する。
生きていることそのものが「恩恵」だと感じられるように生きたい。
上に書いたように思っても、それは思っただけ。
「思うだけ」ではしかたないと思うけれども思わないよりかイイかと思った。