題名にひかれ、『「おろかもの」の正義論』 小林和之・著という
新書本を読んだ。
(「おろかもの」がどんな「正義」を言うのか興味を感じ、おもしろそうな気がした)
(グーグル画像より)
実は「おろかもの」というのは比喩的な言いかたで、ほとんどの人を
あらわしていた。
現代の社会で、身近な、しかしたいせつな倫理的な問題に遭遇し、
そのとき自分ならどういう態度をとるか?
考えさせることがいろいろ述べられてあり、読んでホント、よかった。
(印象的だった二つのことだけ書きます)
ーーーーーーーーーー
① 魔神の誘惑‐生け贄と見返り
【引用】
「〈魔神の誘惑‐生け贄と見返り〉
われわれは、自動車の便利さと引き換えに、8000人以上の人命を犠牲にしている…
魔神に生け贄を捧げるのとどれほど違うだろう?…
確実に死ぬとわかっている生け贄…と、不慮の事故によって死ぬのは違う…」
(交通事故は過失だが、現代でも年間8000人以上の人命が失われている厳然とした事実
《ちなみに本が書かれたのは2000年代の初め》。2020年では2839人)
(注:〈〉、(黒字)の追加はこちらでしました)
ーーーーー
(「生け贄」と「不慮の事故」。二つの死を並べることは論理的にも比較不可能とは
わかっているが、著者はあえて「思考実験」される)
↓
日本が車社会である限り、数は減っても現状では必ず交通事故の死傷者が出る。
交通事故を防ぐ手だてはまだいろいろあるはずで、これからも車社会を続ける限り
可能な限り交通事故は防がなければならない。
そういう努力を続けないと、「魔神に生け贄を捧げる」ことと同じになる。
(交通事故は地震、豪雨など自然災害とちがい人災だ。本気を出せばもっともっと減らさせる。防げる。
交通事故の悲惨さは、被害者とその家族だけでなく誰もが加害者にもなり得ること。
相手を死なせ、大怪我をさせる可能性が大きい。
誰かを死なせ大怪我をさせて嘆き苦しむより、自分が被害者になった方がよかったと
人知れず自殺する人がとても多いと、昔、職場の交通安全研修で指導の警察官から聞いたことがある。
「本気」といえば、
実質効果はいまのところほんの僅しかなくても、人類が生きのびるための地球全体を視野に入れた
資源やエネルギーの確保、環境汚染の運動、流れが現在、これまでになく強い形で起きている。
《昔は考えられなかったことだ》
それだけ現代は、地球のあっちこっちで昔は考えられなかったような危機的な事態が発生している。
以前読んだ本に、それらの原因が地球温暖化だけではなく他にもさまざまな要因があるが、全部が
明らかにされるまで待っていたら取り返しのつかないことになってしまうので、わかっていることは
しっかり取り組まなければならないとあった)
ーーーーーーーーーー
② 選択の自由と強者の論理
【引用】
「〈選択の自由と強者の論理〉
選択の自由の拡大は、競争社会にふさわしい考え方である。
競争しないという選択、同じ結果を受け入れるという選択は、しばしば悪平等と非難され
またそれは必ずしも間違いではない。
弱者の切り捨てと悪平等のどちらを選ぶのか。…
単純な二者択一の問題ではなく、両極端の間でバランスをとる程度問題であり、
すべての社会制度において考慮すべき問題なのだ」
(注:「」、〈〉、太字はこちらでしました)
二つのことを連想した。
ーーーーー
一つ目は個人的なこと。
子どものころの運動会に「徒競走」というのがあり、4人ほどが同時にスタートし
決められた距離を走って勝ち負け、順番を決めた。
(遅い自分はどれほどイヤだったか)
常日頃の遊びや体育授業で、誰が足が速く誰は遅いかはちゃんとわかっているのに
運動会の種目には必ずあった。
(教師は「誰も一長一短…」という遅い子向けの慰みを言ったが、そうかそうかと納得できる
年ごろではなかった)
運動会、徒競走の教育的ねらいがどんなに高尚であろうとも、親の前で走る子ども
(少なくとも私には)には耐えがたい屈辱だった。自尊心を大いに傷つけた。
-----
二つ目は社会(共産)主義社会のこと。
私は人と争うこと、「競争」を好まない。
(しかし人生の始めからそうだったのかはわからない。まだ小さく、覚えていないだけで、
何かの「競争」「争い」ごとで負けたことがあり、人と争い「勝つ」ということに早々とあきらめ、
幼いながらも一種の「覚り」を得ていたのかもしれない《「負け犬根性」とハッキリ言いなさい!》)
人に負けまいというような「闘争心」「向上心」「努力心」が足りない。
「競争」は好まなくても、中国や北朝鮮が競争しなくてよい平等な社会、ホントの
「社会(共産)主義社会」とはぜったい思っていないので、そこには住みたくない。
(アメリカ・ヨーロッパに負けたくないので、経済だけ資本主義と見まがうばかりの競争市場をとり入れ
そことそれに付随する範囲でだけ自由と人権を認めている社会)
「弱者の切り捨てと悪平等のどちらを選ぶのか」
現代の中国は、習近平と経済発展と軍事力の拡大によるという国威発揚のみで、
(外国が指摘しても中国政府は、都合の悪いことは「内政干渉」だと隠し、握りつぶすので外に
見えてこないが)過酷な競争で弱者は切り捨てられ、悪平等さえないようだ。
(北朝鮮にあっては言葉もない)
ーーーーー
個人的な本音をいうと、「徒競走」は今でもイヤだ。
(かといって、同時にゴールできるようスタート地点に差をつけてもほしくない。
競わなくても楽しく走れるはずだ)
「バランスをとる程度問題」であることは了解しながらも、3:2くらいで、私は
「悪平等」はガマンするので「弱者切り捨て」のない社会を望む。
選択の自由が減り、競争から生じる活力も減り、社会が停滞(「停滞」というと
マイナスのイメージが強いが、「定常」)する方を望む。