本には、唯識に特徴的な言葉(「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」など漢字表現の
むずかしい言葉《しかし意味は平易》)がたくさん出てくるのですが、興味ある方は
ぜひ本書を手に取ってみてください。
(すばらしい本です)
終わりに、とても身近な話がありましたのでそれを引用し、私の思うことを。
ーーーーーーーーーー
【引用】
「私は最近、電車の中で座ることができたら、前に立っている人に心の中で「ありがとうございます」
と感謝しようではないかと提案しています。…
(ウンよく座れたとき)「自分は座れてよかった」と思って座っている…。
そこには、無意識であるにしてもエゴ心が働いています。
その人が立っているおかげで私は座ることができていること(自分が座っているという事実)は、
相手が立ち、自分は座っているという現象の背後にあるいわば法則、すなわち「理」にまで目を凝らし
その人と自分とを関係的に見て、「あなたに立っていただいているから私は座ることができました」
という事実(が存在すること)に気づいたのです。…
ほんとうに私たちは、「自分が生きている」のではなく「生かされている」のです。…」
(注:「」・()はこちらでしました)
唯識仏教は、人間は自覚しない(するのがむずかしい)うちに「エゴ」の心が働くので
「阿頼耶識」(視覚など五つの感覚と意識《六識》、それらの奥にある「末那識」とそれよりより
深い根本識)をうまく調えることが最もたいせつなことだと説く。
けれど、わかるようでわからない「阿頼耶識」の話より、もっとも強く感じたのは
「縁起の理」であった。
著者は、私たちは生きるなかですべてのものごとを関係的にとらえてゆくという
「縁起の理」(日ごろは気づかないだけ)を自覚するとき、生き方は大きく変わると
いう。
-----
著者は「座席を譲られた」ら(親切をうけたら)感謝しようと言っているのではない
満席状態で、自分が座れば(座っていれば)自分のぶん、誰かが立つことになる。
(誰も立たなくていいように座席がいっぱい、余裕があればいいが、座席にも限度がある)
ものごとはなんでも有限。限度、限界がある。
人間が生きることだってそうだろう。
(私は見るからに老人。杖をついている。ヘルプマークをつけている。親切を受けることが多い。
受けたらどもっても声に出して礼を言う。その後こんどは心で、その人の背中に向かって心で言う)