自分の世界とは、なにごとにつけエゴ的(いまは「自分中心」とという意味)に
みたもの、とらえたもの。
だが、「自分」というものについて、横山さんは言う。
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【引用】
「〈「自分」というのは言葉の響きがあるだけ〉
「自分」はほんとうに存在するのか
「手を見てください」…「自分の手です」と答えます。
そのときすかさず、「手は眼で見えますが、いまあなたが言った自分という言葉に対応するものが
あるでしょうか。…」…
〈一人一宇宙〉
(私たちは)「この広大無辺な宇宙の中に、一人の小さな存在として…いまここに生きている」と…
でも、…一つの共通な宇宙といったものは、人間同士が言葉で語り合うことによって「ある」と
認め合った宇宙であり、いわば抽象的な存在です。…
「人間同士が共に言葉でもって語り合い認め合う世界」という範囲だけで通用する判断です。…
〈人間はなぜ自分の内に閉じこもりざるを得ないか?〉
自分にエゴ心があるからです。
私、自分、己というエゴ心があるかぎり、私たちは自分の心の中に閉じ込められて外に抜け出ることが
できないのです。…
(よく考えると、自分が何かを「見る」という行為は)「見る」のではなく「見せられている」
→〈縁起の理〉
(たとえば「鏡の前に立つ」という行為は)鏡の前に立つという縁を得て、鏡像とそれを見る視覚とが
生じたのです。…
(そして次に「感覚」が生まれ、「思い」が加わるという)
絵を描くことに例えれば…視覚という「感覚」によるデッサンがなされた…そのデッサンされたものを
色づけするもの、それが「思い」です。…
老いの憂愁感という思いとさらに「言葉」とを付与して「自分の顔はなんと老けたことか」と嘆きます
老いを感じるのは、その奥に「自分というエゴ心」が存在するからです。
→「自分というエゴ心」を背景として、「感覚」と「思い」が合わさって「言葉」として表現される
「感覚」はさほど個人差はないが、「思い」となると人によりかなり違う」
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(以上の引用を三つに分けて書きます)
① 「自分」というのは言葉の響きがあるだけ
「唯識」は宗教ではなく、哲学かと疑いたくなった。
(でも本を読み続けていくと、これは理屈ばかりの哲学ではなく、「論理」を「信」によって超えた
宗教であることがよくわかった)
「言葉の響き」という言葉、その後もなんどか出てきた。
「唯識」にとって根本的な、たいへん重要な考えかたであるらしい。
「言葉」は「実体」では決してない、ということ。
(前に書いた養老さんの考えかたを想った。
「言葉」は「貨幣(お金)」のように、それに関わる人々の「信頼(信用)」が基底にあってのこそ。
「約束事」にすぎない)
「「自分」はほんとうに存在するのか」と、自分の眼で見る「手」と同じように
(ということは同じレベルで)「自分」というものが客観的に存在するのだろうかと
問われる。
客観的に在るものならば、手のように、ちゃんと自分の眼に見えるはず。
しかし、手のようには「自分」は見えない。
しかし、他人の眼にはたしかにちゃんと「自分」(「私」)が見えている。
客観的に「自分」は存在している。マジックのようだ。
(「在るようで無い」「無いようで在る」という禅問答のような表現がなんども浮かんだ)
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② 続く〈一人一宇宙〉のところで、「言葉の響き」に深く関連するけれど、
「言葉」の存在意義の一つにコミュニケーションがあり、自分と他人を結ぶ。
つまり、
「一つの共通な宇宙といったものは、人間同士が言葉で語り合うことによって
「ある」と認め合った宇宙であり、いわば抽象的な存在」があることが
述べられている。
「言葉」は他の生きものと人間を分けるほど重要なもので、上記のマジックも
解決してくれるありがたい存在なのだ。
「言葉」があるからこそ、私たち人間はおのおの自分を表現でき、わかり合える
(先に述べたように「貨幣」は人々の「信用」を前提に流通され、お金さえあればたいていの物事は
手に入る。願いは叶う。
しかし「言葉」の流通も「信頼」「信用」が前提になっている。
同時に人間は、次に触れるように《エゴ的存在だから》「信頼」「信用」を逆手にとって、
自分の欲望の実現に他人を利用することもやる。
大は権力・名誉・地位などに憑りつかれた者。中はそのおこぼれを頂戴しようとする取りまき、
ソンタク者。小はオレオレ詐欺のような悪知恵のはたらく者)
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③ 「エゴ心」。
「何かを「見る」のではなく「見せられている」」という〈縁起の理〉。
この歳まで生きて過去をふり返ると、否が応でも「縁」としかいえないものを
実感するようになった。
(「過去」だけではない。「現在」は刻々と「過去」になりつつあるので現在も)
まさに、「生きる」のじゃなく「生かされている」ことを実感する日々。
(ずっと昔にひろさちやさんという仏教学者の本に、われわれは命を天から「授かった」のじゃなく
一時的に「預かっている」だけ、という謙虚な気もちをもって生きることのたいせつさを述べておられ
「目からうろこ」だった)
ところで、
「感覚」はさほど個人差はないが、「思い」となると人によりかなり違う」に、
またまた考えさせられた。
「エゴ心」は生きている限りどうしようもないし、感覚も自然に発生する。
ここまで人による大差はないが、「思い」が加わるとだいぶん違ってくるという。
「思い」とは心。
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結論。
唯識とは、人間は「思い」「心」をだいじにして生きなければならないと、
(ある意味、あたり前のことを)いっていると思った。
だいじなことはシンプルなのだ。
(頭ではわかっていても私は性分が根から曲っていると思っている。物事を斜にみようとするのだ。
すなおじゃない、シンプルではない《イヤになるがしかたがない。これが自分とあきらめる》。
オリンピックは日本のメダル獲得が続いている。テレビでは選手さんの喜びの声に続き、同じ日本人、
郷土の名誉としてすなおに喜ぶ人たちがテレビ画面に映し出されている。が、私は覚めている)