目をつぶっているとき以外、絶えず「風景」(「景色」、「景観」、「光景」)は
目に映っているはずだ。
「風景を見る」というのは「息する」みたい。あえて意識してみなければ見えない。
「風景」は、普段、日常のなかではほとんど「背景」(「後景」)になっており
あまり意識されることはない。
とくべつ印象に残るものは「思い出」のような形で、後からなつかしい感情などを
伴って意識されるくらい。
しかし、たまにふっと「風景」を思うことがある。
普段、日常の生活のなかで「風景」を意識して見て(視て、観て)みたい、と。
旅は普段、日常ではない。
(とくべつな時空の体験なので、見るだけではなく聞くものまで新鮮で印象的。
「一期一会」を感じやすく、何に対しても意識が向きやすい)
旅は目的地に着いてからではなく家を出たときから始まる。
(出発となる起点と帰ってくる終点の間じゅうは旅)
そういう「空間移動」の旅のように(「人生も旅」)「時間移動」も楽しみたい。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
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「風景」について書いてあるものがあれば読んでみたいと前々から思いさがして
いたらやっと見つけた。
『新・風景論』(清水真木・著)
(グーグル画像より)
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「風景」というきわめて身近でなものを哲学的な観点から、
真面目に考えてみようとしたものだ。
もちろん、だからといって目にみえる景色が変わって見えるわけではない。
しかし読んだいまは、毎日ながめている普段、日常の風景が(ちょっとだけだが)
深く味わえそうな気がしてきた。
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本は大きく二つの中身に分けられると思った。
一つは、「絶景の美学」。
人はあえて「風景」というと「美景」、つまり絵(写真)になるような美しい風景
「絶景」を想いがち。
(こういうよくある風景観を、著者は「絶景の美学」と呼ぶ)
もう一つが、「新・風景論」で、著者が哲学的な観点から考えてみよう
としたもの。
きょうは「絶景の美学」、もう一つは「風景をみなおす」として次回に書きます。
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「絶景の美学」
【引用】
「存在する…すべてのものは、みずからにふさわしい態度をとるよう周囲に対して要求するのであり、
これが「存在する」ことの意味の少なくとも一つの側面であると考えることができます」
…
「私の生活は、…つねに風景に侵されています。…現実に風景に注意を向けるかどうかには関係なく、
生活が生活の名に値するものであるかぎり、私は、風景に対しその都度あらかじめ何らかの態度を
とっています」
…
「絶景とは「風呂屋のペンキ画」のことである」
(グーグル画像より)
…
「絶景の美学から少し距離をとり…考えてみるなら、…普段の生活において風景として受け止めている
ものは、作品ではないことがわかります。…それは、私たちの意のままにならない変化であり、
意のままにならない変化を含むことによって初めて、風景は、本当の意味における風景になるのです。
風景を前にするとき、…本質的に新しいもの、意識の他者に出会うことになる」
(注:「」、太字太字はこっちでしました)
生きていれば、(視覚に大きな障害がないかぎり)たえず何かを見ている。
何かにとり囲まれている。
「絶景!」「絶世の美女!」と感激することがあっても、ほんのたまのこと。
普段、日常のなかでは「美しい」とか「好ましい」(「美」=「好」ではないけれど)とは、
あえて見いだそうとしなければ見つからない。
また、新たな現実の出あいを求めなくても、「普通」と見えていたものに、新たな「美」や「好」を
発見するということもある。
「存在する…すべてのものは、みずからふさわしい態度をとるよう周囲に対して
要求する…」
↓
身にまわりにあるすべてのその何か(○○(台所や机や壁、山や道、駅…なんでも)は
ここにちゃんとあるよ! 私(○○)に恥ずかしくない態度をとってよね」と
自己主張しているようだということであり、
「私の生活は、…つねに風景に侵されています。…」
↓
生活らしい生活をしているかぎり、自分の身にまわりに存在するすべてのその何か
(ある「風景」)を見、とり囲まれているので、(いちいち意識していないが)その度に
たえず何らかの態度をとり、とらされているということ。
つまり、「風景」というのは
けっして「絶景」のような、非日常的なとくべつなものではないということ。
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「絶景の美学から少し距離をとり…」
↓
「普段の生活において風景として受け止めているものは」はけっして風景画の
ような「作品ではない」、眺める者の「意のままにならない変化であり」
その「変化を含むことによって」「本当の意味における風景になる」という。
述べられていることがちょっとわかりにくかったが、続く「本質的に新しいもの、
意識の他者に出会う」と合わせると何となく理解できる気(あくまで「気」)がした
私たちは絶景ではなく見慣れた、ほとんど意識することもないような日常の風景の
なかで暮らしている。
そういうなかに、ときにハッとすることがあり、それが著者のいう「本当の意味」
の風景だと思った。