カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.5.6 スズメ…

今月10日からの1週間は愛鳥週間(バードウィーク)

それに合わせたわけではないが野鳥(といっても身近な三つの鳥)、スズメ、ハト、

カラスについて書かれている本を、おもしろくて2冊も続けて読んだ。

 

『身近な鳥の生活図鑑』  三上 修・著

 

『スズメの少子化、カラスのいじめ―身近な鳥の不思議な世界』  安西英明・著 

 

動かなかったら身体がかたまりホントに寝たきりになるので、退院したときは車イスも用意したが

「歩こう 歩こう わたしは元気」という歌が頭の奥でグルグル聴こえ、杖など何かを支えにすれば

歩けたので、せっかく用意した車椅子はどこかに寄贈した。

(で、天気が好ければいつもというわけないが、よく散歩する)

 

1万歩を超えることは桜や紅葉のときにあるかないかくらいだけど、4000歩前後は歩く

そのとき植物だけでなく、野鳥にも目を向けるようになった。

高倍率ズームのデジカメを持つようになり、遠くの高い木の枝先や電線にとまっている点のようにしか

見えなかった野鳥、小鳥がわかるようになった。

 

人生は何がどう転ぶかはわからない。

まさか障害者、老人となってから鳥に目覚めるとは思わなかった。

子ども時代は田舎に住んでいたのでスズメ、ツバメ、カラス、トビのほかシジュウカラをよく見た。

大人になるころから都会、街に出てからはハトが加わり、シジュウカラはほとんど見かけなくなった。

 

        

野鳥を意識するようになってから、ムクドリヒヨドリに気づき、数年前からはイソヒヨドリという

鮮やかな体色、かわいい鳴き声をする野鳥を知った。元々は海岸などに暮らしていたが、

コンクリート建物が海岸を想わせ、街に進出したらしい(その話を聞いたときは感心した)。

 

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ということで、散歩(本来はリラックスするものだが)野鳥の気配に神経をとがらす。

(「ちぇ!スズメだったか…」「何だ!カラス(ハト)か…」とよくあって、

その都度スズメたちに謝る)

スズメたちを見る(観察)のは容易だけど、ほかの野鳥はむずかしい。

 

しかし、「愛好家」までいかない凡人には、珍しい野鳥の発見は楽しいけれど、

それは「発見」と「見分け(判別)」にとどまって終わることが多い。

これらの本は、「その気になればスズメたちを見る(観察)のは容易」なので、

生態(暮らし)を含めてその特徴をじっくり観察してみよう、つき合おうという。

現代を生きる私たちが、そこから感じる、観えるものの中に、とても大事なことが

あるという。

        

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以下の引用は、2冊をごっちゃにし、順不同で写したものです。

 

【引用】

鳥の世界から我々の世界の変化が見えてくる

まず、時間を持て余すようなことがない。待ち合わせで待たされても、スズメやカラスを見ていれば

飽きることはない

また、人はパンのみに生きるにあらず。精神的充足を求めるためにも自然から搾取し、

エネルギーを消費していることを考えると、地球にやさしい暮らしには、「地球にやさしい娯楽」

(野鳥観察のこと)含まれるべきではないか。

生きのびて当たり前、衣食住があって当たり前なら、人の常識は地球の非常識と言わざるを得ない。

私たちが気づく野生の命は生きのびた一部でしかなく、その背景にたくさんの命があったこと

含めてこそ、命は大切で、愛おしいのではないか。

それは、自分自身が、今生きていることの素晴らしさを感じることにも通じるのではないだろうか。

そのためには、際限のない欲望を減らすベクトルも必要になる。

見かけだが、事実ではない。目に見えなくてもあるもの、例えば、空間軸にある命のつながりから

「私たち以外にもいろいろな生物がいる」ではなく、

「さまざまな生物がいる地球という星に、ヒトという生物種もいる」という認識を持てば、

自然の素晴らしさと厳しさ、文明のありがたさと危うさを、同時に感じられるのではないか。

教育はわかったことばかりを教えているようだが、「知られざるを知る」も伝えるべきだ。

知識を増やすことで、感性を鈍らせてはいないか

「生きる力」に続いて「初等教育から英語が必要」やら「愛国心」やら、教育論議は結構だが、

「いかに不思議か」とか、すごいか、面白いか、楽しいかなどが先だと私は思う

 

〈オマケ〉

「〈ドバトは減っている?〉

ドバトが減った理由として、供給さられドバトの数が減った可能性が挙げられます。…

ドバトは、レース鳩や式典の際に放たれる飼い鳩から供給されている面があるとことを述べましたが

レース鳩に関わる人たちの数は減っていますし、式典で飼い鳩が放たれることも減ってきました。

ハトの違いにハッとする

昔は、町の中には、たくさんのドバトがいて、神社で餌をもらっていました。

そして、キジバトは、里や山にしかいなかったのです。

ところが今は、どうやらドバトは減少傾向にありそうで、一方、キジバトはどんどん都市に

進出しています

 

(注:「」()、太字はこちらでしました)

 

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引用の赤太字の部分はもちろん特に印象に残ったこと。

その中でも

私たちが気づく野生の命は生きのびた一部でしかなく、

その背景にたくさんの命があった」というのは格別だった。

 

私たち人間は(大昔はともかく)きているのがあたり前」だと(いつの間にか)

思っている。

思えば私たち人間だって、いまここで私がこうして生きている「背景に

たくさんの命があった」ということだ。

そのことを「不思議」「すごい」と感じたい。

(前の記事で書いた「在るものを愛すること」ことに通じるだろうか。

たまたま目の前にいるスズメとの一瞬の出あい。あまりにわずかな時間なので《そのスズメを》愛する

まではいかないけれど、その時間を惜しむことはできそう)

 

 

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                            ちりとてちん

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