『禅僧が教える 心がラクになる生き方』 南 直哉・著
という本を読んだ。
とてもやさしいわかりやすい内容で、自信をもって薦められる本です。
(近ごろでは前に書いた『人間が生きるってこういうことかしら』以来のことでした)
あまり多くはないので、初めに付箋したところのみ引用し、
後から感想を少し書きます
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【引用】
「〈「自分を大切にする」ことをやめる〉
ふだん、あなたが「私」と呼んでいるものは、突き詰めれば、「記憶」や「人とのかかわり」で
成り立っている存在にすぎないのです。…
人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。
〈「生きる意味」は見つけなくてもいい〉
自分の存在はしょせん「たまたま生まれてきた借り物」にすぎない…
自分のためではなく、誰かのために何かをする…
自分が選んだ「べき」が、しょせんは幻想だとわかっていれば、力む必要もないでしょう。…
〈生きるか死ぬか以外は、大したことではない〉
〈「置かれた場所」で咲けなくていい〉
〈「人生に意味などない」というところからスタートする〉
仏教では、「人間は無明である」と考えます。…
私の考える無明は、人間の存在それ自体には確かな根拠がない、ということを知らないことです。…
「人生のそれ自体に意味などないのだから、わからなくていい」と気づく。…
自分の選択が「正解」だったのかどうかは、死ぬまでわかりません。
しかし生きている限りは、そこに賭けていくと決めています。
〈情報の99%はなくてもいい〉
自分にとって「要るもの」と「要らないもの」が明確にわかっているのです。…
「欲しい、欲しい」と思うときは、強い不安があるのだと考える…
自分はいったい何が不安なのか。…どのような状況が自分を不安にさせているのか。…
「生きているのも悪くないな」と思える人生を生きる…
人生には、死ぬこと以上の大仕事などありません。…
〈すぐに「答え」を出そうとしない〉
自分で言葉にすることがむずかしいのなら「末期の眼」を持って問題を見…
〈「自分が、自分が」と考えない〉
世間で「年をとる」ということは、つまりは「いなくても構わない人になっていく」ことです。…
〈死を乗り越えようとしなくていい〉
(「自分」とは 「自分」という舟)
人がこの世にある限りは、どうしても乗らなければ生きられない乗り物。
「かけがえのない人生」と言いますが、しょせん自分の思い込みです」
(注:「」〈〉太字太字はこっちでしました)
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著者の南さんは、子どものときから身体が弱かったこともあってか、
生きる死ぬということにとても敏感で、そういうこともあり、必然のように
仏教の道に進まれた。
(他の本に詳しく書いてあります。
この方は寺の生まれではないけれど、曹洞宗の大本山「永平寺」で修行されて僧侶となった)
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「人間の存在それ自体には確かな根拠がない」というのは、著者の人間、人生に
ついての根本的なとらえ方だ。
(私は南さんのものを他にも読んだことあるけれど、強くそれを感じました)
「人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられた」のだから「〈「生きる意味」は見つけなくてもいい〉」のであり、
「〈「自分を大切にする」ことをやめ〉」ればいいし、人生においては
「〈生きるか死ぬか以外は、大したことではない〉」のだ。
「自分の選択が「正解」だったのかどうかは、死ぬまでわか」らない。
間違った選択をしたと思えば修正して生きなおせばいい。
しかし、選択しなおせるものはその時その場ですればいいけれど、
自分の「人生」そのものは終わるまで、死ぬまでわからない。
(他人が自分の人生を評価してもしかたないのであって、自分が納得できたかどうかが問題だ。
でも実際は、死ぬときはそんなことどうでもよかろう。
ただ、「ありがとう!」とは絶対、伝えたいもの)
「人生」そのものは一度きりでやり直しはきかない。だからこそ、
「生きている限りは、そこに賭けていくと決め」るのだ。
もう一つの問題は、自分は何に「賭けていくと決め」るか?
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「末期の眼」とは、死ぬときの眼ということだろう。
そんな眼、気もちを持って毎日を生きたい。
(「メメントモリ」)
とくに若いころは自意識が強く「自分が、自分が」「自分中心」となりやすい。
でも、「「年をとる」ということは、…「いなくても構わない人になっていく」」
(孫はただ可愛い。それは「親としての責任」という義務感から解放されるためだろうが、自分が
「いなくても構わない人になって」るからだとも思う)
「「自分」とは 「自分」という舟」
「人がこの世にある限りは、どうしても乗らなければ生きられない乗り物」
そうか、自分は「○○」丸(号)という舟みたいなもんだと想うと
気が楽になってきた。
「どうしても乗らなければ生きられない乗り物」なのだから。
この人生は、「しょせん自分の思い込み」でありはしても
「「かけがえのない人生」」であるのに違いない。