前に『あずかりやさん』(大山淳子)という小説を読んだことがあるけれど、
同じ書名で新しい作品集が出たので読んだ。
(一つひとつの小話が、本全体の主人公「あずかりやさん」につながる)
ほんわり心が温かくなってくる物語なのでまた読んだ。
(隠居老人になってからは、ほとんどの時間が自由なので、テレビの好きなドラマで感動をもらい、
『あずかりやさん』で心を温めた。
昔、「統一教会」の霊感商法による悲惨な家庭崩壊が新聞やテレビなどで大きく報道された。
いつの間にか騒がれなくなったので私は解決されたのかと勘ちがいし、忘れていた。
私のように、多くの国民が忘れているあいだに、彼らは権力の中枢を取りこみ、
「統一教会」という名称さえ変えた。
安倍前々首相の事件が起きなかったら、こういう事実さえ明らかになっていなかった。
《想像すると恐ろしくなってきた》
・わずか二つの子どもをベビーサークルに入れて家に残し、娯楽施設「USJ」に遊びにいって帰ると
死んでいたと話す46の祖母と50の同居男。
・男に密会するため幼い子どもたちを車内に放置して死亡させた女。
こんなニュースを聞くと、「統一教会」とともに、心は冷えてしかたがない)
ーーーーー
『あずかりやさん』のような小説を書く(「書ける」というほうが適切)人の発想、
想像力はどうしてこんなにすばらしいのだろう。
で、思った。
↓
(私の読む本のなかには、人間が生きるうえで最もだいじなものということで「贈与」という言葉が
よく出てきます。
《ちなみに反対の言葉は「交換」》
「贈与」とは「贈り物」「プレゼント」、対価を期待せず一方的に与えること。
ある本にはこういうことが述べられていた。
↓
小説を書く才能に限らず、科学や技術の能力《だけではなく姿・形、器用さ、運動・動作など
外面的な能力も》は、努力という後天的なものもあるけれど、生得的なものもある。
《「輪廻」を信じていない限り「ウン」「たまたま」というしかない。
どこでいつ、どのような姿かたちで生まれたのかは、今のところそうとしか説明できない》
生まれついての才能・能力は、その個人へ「天」から「贈与」されたものと考えることができる。
天から贈与されたものを自己利益に使ってはいけない、それが倫理というもの。
もともと才能があったとしても、それがあったかどうかは開花《成功》しなければわからない。
なくても劣っていたとしても、それをカバーして余るだけの幸運、偶然に恵まれれば成功できる。
西洋社会《とくにアメリカ。大儲けするチャンスが多いビジネス社会》では社会的、とくに経済的に
成功した人が寄付、○○基金、■■財団をつくり、世の中に貢献、役立てようすることが多いけれど
《普通の市民でも「神のご加護」=幸運のおかげとそれなりの寄付を普通に行っているらしい》、
背景にキリスト教の愛があるにせよ、社会、世の人々に自分は成功させられた、儲けさせてもらった
ことを「恩義」と感じ、それへのお返しでもあるという。
「天からの贈与」かぁ…
自然から贈与されるものは災害のような全然ありがたくない、絶対に拒否したくなるものもあるけれど
それ以上に恵みをもたらせてくれる。
個人としての私には、大山淳子さんのような才能はないけれど、大山さんの『あずかりやさん』という
作品の「贈与」に対して、読んで感動という返礼《お返しの「贈与」》をした気がする。
ー図書館で借りたから無償、まさしく「贈与」なのですが、お金《本の代金》の有無の問題では
ありませんー)
とても心に響いてきた二つのことだけ書きます。
ーーーーーーーーーー
①
何をしてもうまくいかない(幼いとき親から腕に金魚の入れ墨をされ、いまも消えない)男が
自暴自棄になり「あずかりやさん」(一日100円で何でも預かる店。店主は盲目の青年)へ
強盗に押し入ったときの「金魚」という物語。
(語り手は男が脅しにつかったナイフ。つまり擬人化されたナイフの語りがストーリー)
【引用】
「男はあらためて青年をみた。目が見えないから(腕の入れ墨)金魚が見えない。
だから男を先入観で判断せず、客だと思ったのだ。
外見で判断されないのは、なんと気が楽なことだろう。」
…
「男はあずかりやに憤怒をあずけた。そして二度と取りに戻ることはなかった。」
…
(その男が人を助けようとして死んだことに対して)
「わたしは男の人生に同情しない。人の一生なんてそんなものだろうし、
それなりのものだったと評価している。」
(注:「」(黒字)はこっちでしました。後の引用も同じ)
店主の青年は盲目なので、人を外見で判断することはしないし、できない。
「客」が強盗犯であったにかかわらず、ふつうの客と同様、ていねいに対応する。
男は生まれてから、これほど親切丁寧に応じられたことがないのでとまどった。
ましてや今、自分はナイフを手にし強盗を目的に侵入しているというのに…。
なんてこった…
「外見」「先入観」でもって物事を、人を見てはいけない、とよくいわれるけれど
男の「外見で判断されないのは、なんと気が楽なことだろう」の思いに、
そうされる側に立ってみれば、どれほど不愉快、気が滅入ることなのかを
あらためて痛感した。
男は生まれて初めて「あずかりやさん」の店主に、客でもないばかりか強盗を
はたらこうとしているのに人として丁寧に接せられ、心からのもてなしを受けた。
店主の青年に対応し(対応され)ているうちに、男はこれまでの人生への「憤怒」を
「あずかりやさん」に預けることにした。
そして「二度と取りに戻ることはなかった」という。
男はそれから真面目に働いて生きた。
人から慕われるようにもなった。
あるとき、人を助けようとして自分が死んだ。
(人を脅すことには使われなくなった私《ナイフ》だが、生涯、男のそばを離れることはなかった)
ナイフは思う。
「わたしは男の人生に同情しない。人の一生なんてそんなものだろうし、
それなりのものだったと評価している」
男は(「あずかりやさん」に会うまで)ヤクザまがいの生き方をし(「あずかりやさん」に
会い「憤憤」を預けてからは)それまでと人が違ったように変わり、最後は人助け、
善行で一生を終えた。
男の人生は、平凡な人の平凡な一生と比べれば、波乱万丈、ドラマチックだった
かもしれないが、だからどうだというのだ。
人の一生というものは、社会にさらされいろいろと評価されようが、自分の人生は
自分だけのもの。
「人の一生なんてそんなものだろう」
ーーーーー
②
次に「太郎パン」という物語があり、その中に、
【引用】
「「大切なものを選ぶのは、とっても楽しい作業なの」…
婆さんは大切なものをまたここに持ってくる。何度も持ってくる。
自分の人生を振り返り、大切なものだらけだと、気づく日々は続くのだ。…
ものに埋もれたまま死を迎えたって、よいのではないか。」
とあり、ハッとした。
(引用部分は「太郎パン」という物語の中に出てくる話で、パン屋さんの物語《本題》とは
直接の関係はありません。
「婆さん」というのは、「あずかりやさん」の主人、青年を孫か子どものように慕っている世話好きの
近所の小母さん。よく店に顔をだす。
婆さんは、「大切なものを選」んで「ここ《「あずかりやさん」》に持ってくる。何度も持ってくる」
あずかってもらっている《その時間の》間に、ほんとうに要らないかどうかわかってくるのだ)
いまは昔ほど聞かなくなった「断捨離」。
初めてその言葉を聞いたとき、私はすでに老人になりかかっていたけれど
たいせつなことだと納得し、残り少ない人生、生き方をシンプルにしなければ…と
もともと少ない所有物ではあるけれど、「だいじなもの」という理由だけで残して
いた物のうち、あまり必要性がないと感じるものはどんどん処分した。
ここを読み、「断捨離」のやり方について考えさせられた。
所有物品から「不要」と感じるものを選びだして処分する(廃棄・リサイクルなど)
作業をよく見ると、処分のほうに力点をおいている。
そうではなく、残すほうに焦点をあわせ、力点をおく、「大切なものを選ぶ」
ほうが「とっても楽しい」かも…と。
なるほど!
断捨離を、「処分」という引き算の方向からではなく、
「大切なものを選ぶ」という足し算の方向から攻め、
「自分の人生を振り返り、大切なものだらけ」だと気づかされる。
「ものに埋もれたまま死を迎えたって、よい」のかもしれない。