『1999年に生まれて』(シャルロッテ・ケルナー著)という本(小説)を読んだ。
衝撃的な中身だった。
この作品の舞台は1999年のドイツ。
2022年の現在からは23年前の過去だが、バイオ技術の応用が大きく進んでいた。
(「バイオ」は生命のこと。人間のことならきわめて個人的で、プライバシーにかかわるので
世には大ぴっらにされにくい。
生命倫理に抵触しそうなことなので、世間にかくれるよう密かに実験されているのでは?と疑う。
この本のなかだけでも、関連した生殖技術として他に「代理出産」「代理母」も出てきた)
小説は、思春期をむかえた主人公(カール)は自分が「体外受精」技術で生まれた
ことは養父母(隠す必要もないと考えている)から聞きしっており、自分の出生を調べ
ルーツを探し、そしてアイデンティティをもとめる物語。
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「体外受精」。
言葉は知っていても、私は日本での実態がどうなのかは知らなかった。
ネット検索して初めて知った。
2021年9月14日の「読売新聞オンライン」にはこうあった。
【引用】「2019年に国内で実施された体外受精で生まれた子どもは6万598人で、
前年に続いて過去最多を更新したことが、日本産科婦人科学会のまとめで分かった。
生まれてきた子の14人に1人が体外受精で誕生したことになる。
国内初の体外受精児が誕生した1983年以降、この技術で生まれた子どもは
計71万931人で、70万人を突破した」
「代理出産」「代理母」、それに「デザイナーベイビー」はどうなんだろう?
(「デザイナーベイビー」を、私は何年か前のNHKのドラマではじめて知った。
もちろん、いまは日本では法律で認められていない。
「デザイナーベイビー」は生まれて《「つくられ」というと「商品」と間違えそう》いないが、
いまは「まだ」でも、近い将来、実現するのではないかと想うと背筋がこおる。
「人間はどうあるべきか?」「自分はうなりたいのか?」「自分はどういう人生を願っているのか?」
と問い、考えるヒマなく、「次世代」といわれる便利・快適な商品に追いまくられ《ということは
支配され》ている現状は、人生が「本末転倒」に扱われているようでまったくおかしい。
「デザイナーベイビー」を思いつく、発想できる「頭脳」はどうなっているのだろう?
技術に引っぱられる、リードされるということの「チグハグ」を感ぜざるをえない。
たとえば、避難情報・警告を知ったり、給付金を申請・受けとるなどのたいせつな公的な情報の伝達、
報知が、それをいちばん必要とする老人を配慮することなく行われている。
「モノが売れ経済、市場が活況することが第一」とされ、身のまわりにインターネット環境があって
使えることが前提とされている)
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日本で2019年には誕生した子ども全体の「14人に1人」が、
「1983年以降(では)、…計71万931人」が、
日本の法律にのっとった体外受精技術によって生まれた子どもだという。
その子たちが大きくなって自分の出生にこだわったという話はいまのところ、
聞いたことはない。しかし、
「体外受精」など不妊治療技術がもっと進んだら聞くようになるのかもしれない。
(「出生前診断」の発達で胎児の障害の有無がわかるようになった。それを「知るかどうか」
「産むかどうか」を選択、決断をしなければならなくなった。
「運わるく」生まれることができなかったら、「自分の出生にこだわ」ることも起こりようもない)
自分が何者かにこだわるアイデンティティを求めるのは(昔のことはわからないが)
近代の社会では人が人であるかぎり普遍的なことだと、この小説はかたっていた。
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現在の日本では、(技術的には可能でも)不妊治療としての「代理出産」「代理母」
までは認められていない。
(「どうしても」と望むのなら《それらが法的に認められた国まで》海外渡航できる条件がある
なら可能)
しかし技術的に可能なことは人間は何でもやる、(歴史が証明するように)やった。
早かれおそかれ国内でも認められ、海外渡航しなくてもすむようになるだろう。
技術的に可能なことに、「倫理」が邪魔になれば、それをどければいいだけだ。
(技術が倫理を超えるのは火を見るよりも明らかだ《戦争をみれば明白》。
日本でも貧しい時代は食うために自分の血を売るという「売血」という行為があったが、
先日みたテレビの映画《30年前のブラジルの話》では、孤児など不幸な子どもをどこかの国の夫婦に
養父母になって育ててもらうと「善意」の言葉でダマし《「善意」は大ウソだと事実を知っていても
カネ欲しさに子どもをわたす人もいる》子どもを売買、その子どもの腎臓などを摘出し、その臓器を
求める金持ちなどに売買する犯罪組織がでてきた。
人間の身体が、臓器が売買される。移植される。
現在は違法であっても、人が望み、なおかつ技術《移植にかぎらず》があればできるのだ。
オマケの話→『祈りのカルテ』というテレビドラマがある。前々回は「心臓移植」の話だった。
ごうまんな、お付きがいるほどの人気女優が海外に渡航して「心臓移植」するまでのあいだ、
主人公《研修医》のいる病院に入院した。
渡航しての「心臓移植」手術には膨大なお金がかかり、一般人の手にはふつうは負えない。
ところが人気女優は「人気」のせいでクラウドファンディングで必要以上の大金が集まる。
そこがドラマ《実際にはありそうもない話が展開、終わりを迎える》なのだが、集まった大金は、
自分の海外渡航しての心臓移植には一銭もつかわれず《女優は死ぬ》、お金がなくて助かるいのちも
諦めざるをえない人たちのために寄付された《彼女はごうまんな人ではなかったのだ。
「祈り」のような泣かせる物語だった)
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小説にはこういう記述があった。
「これまで親といえば、ふたりと決まっていた。ところがこの技術によって、
子どもは五人の親を持ちうることになったのだ」
育ての父母(義父母。子どもが欲しくてもできないから「他」から赤ちゃんをもらう)、
遺伝子の父母(「他」→「体外受精」のもととなる卵、精子を提供する女性と男性)、
「ものは言いよう、思いよう」で、自分ひとりの誕生、育ちに五人も関わって
くれたということに感謝すれば、なんと自分は幸せだと感じられるけれど…
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小説のはじめ、主人公は育ての父母(義父母)を責める。
「子どもが欲しいって願望が第一で、
それがぼくであるかどうかは二の次だったんだ」
「ルーツ探し」の自身の努力や理解者、協力者のおかげでさまざまな真実が
わかった小説の終わりになっても、まだカールは義父母を責める。
「子どものアイデンティティは一体どうなるのか?
新しい技術で誕生する人の人生はどうなるのか?」
「父さんたちには、ぼくの人生なんてどうでもよかったんだろう?…」
「人が生まれる」(といういい方は子どもにとって)、
「人を産む」(こっちは親)ということは、
ほんとうに難しい、複雑なことなのだとつくづく感じた。