「インフォスフィア」
初めて聞いた言葉だ。
何のことかチンプンカンプン…。
本にはこうあった。
「この時代において人間が住まう共時的環境が情報圏(インフォスフィア)である。
先に、ICTが高い自律性を獲得し、人間のほうがそれに依存するようになると述べた。
そこでは我々はICTを通して世界を見るだけでなく、ICTに適合した観点で見るようにうながされる」
(ちなみに「ICT」とは、「通信技術を活用したコミュニケーション」。
また「インフォスフィア」とは「情報空間」のこと。
(英: infosphere、インフォスフィア)とは、information(情報)と sphere(球・空間)の混成語であり、
人間が扱う「情報」によって形成される、「物理的空間」とは別の独自の秩序を、比喩的に表現した言葉」
要するに、
いま自分たちが生きている世界、現実の環境はあらゆる情報で成りたっており、
「ICT」、つまりスマホのように身近で役だっている情報機器をとおして世界を
感じ、知り、考えている。
それは、組みこまれている各種アプリなどの眼で外界を見るということであり、
それを通していつのまにか、それら「通信技術を活用したコミュニケーション」に
かなう眼をもつようになるということ。
私たちは知らずしらずの間に「通信技術を活用したコミュニケーション」の便利、
楽しさに慣れ、情報発信者の手のうちに取りこまれていることを忘れるだけでなく
それが自然な状態にまでなる。
自分では主体的にその「通信技術」を操っていると思いながらも、その実、
操られているのではないか。
(そういう可能性、危険があるということを、できるだけ自覚しなければならないと思う。
これは双方向であり、情報発信者だけの考え・思いだけではなく、受け手も発信できる。
そこに「コミュニケーション」が生まれるが、両者の力の差は明らかであり、
私たち利用者の姿が、お釈迦さまの掌をぐるぐる巡っている孫悟空に見えてくる)
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続けて述べられているところに、強く刺激された。
これまで作業の効率化を追求するあまり、
私たちの幸福という心の問題をなおざりにしてきた」
何のための「作業の効率化」?
それだけではなく、SNSという誰もが簡単に情報を発信できるようになったことも
情報(知識)を、「私たちの幸福という心の問題」という視点から考えてみると、
「作業」を「効率化」し、さまざまな情報、知識を得、「コミュニケーション」を
はかることが、必ずしも「幸福という心の問題」につながるわけではなく、
「情報」も「モノ」と同じで、(自分にとって)ほんとうに必要かどうかを
吟味しなければならないのではないか。