『アイの物語』にとても刺激されたので、また人類社会の未来を考えさせるものを
探して読んだ。
ヒト型ロボットもクローン人間も登場しなかったけれど、ほんとうにスゴかった。
「スゴい」とは意味のうすい便利な言葉だけど、語彙のすくない私には他の表現がでてこない。
『ハーモニー』 伊藤計劃 という。
(作者の伊藤計劃さんは34歳という若さで亡くなられている)
(グーグル画像より。コミックにもなっているようです)
科学技術の進歩・発展をみていると、果てしなく膨張を続けている宇宙のよう。
これからも無限につづくのだろうか?
「イノベーション」「次世代」という表現がいつからなされるようになったのか知らないが、
次々に新しいものが登場している。
それを、外に向けて進化したのがヒト型ロボットの活躍する『アイの物語』で
遠い未来世界を描いていた。
『ハーモニー』では、それが内に向けて進化した生体バイオ技術を描く。
生きものとしてのヒトそのものに手をくわえ、人間を内から操作、管理してゆく
近未来の世界だ。
(私の個人的な印象です)
どちらの物語も、人間のためによかれということで際限なく進む科学技術が
(活かされる場が内・外、また時間的な遠・近の違いがあろうとも)人類の理想だろうか?と
読者に問題を投げかける。
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科学技術の進展の原動力は人間の「欲望」で、それは本能的なもの。
本能は生のエネルギーであり、生そのものだ。
(「欲望」とひと口にいっても、ガマンが足りない、ガマンすればすむ単純なものから、
文化芸術ポーツのような能力・技術の向上という欲求のために忍耐力など努力を必要とするもの、
いろいろなことを知りたいという知的欲求のような複雑なものまである。
単なるわがまま、我欲でなければ、「こうしたい」「ああなりたい」という欲望はみんな
人類の文明と文化の根本)
しかし、人間の「欲望」はガン細胞のように見える。
放っておけば分裂をくり返し、自己増殖し、やがては死に破滅を迎える。
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私たちの果てしなき「欲望」達成にむけての科学技術のあり方を知ると、
やっぱり行きすぎ、暴走ではないかと不安になってくる。
「これで満足」「ここまで来れば、もういい」と感じるものがいっぱいあるように思える。
(私はガラケーを使っているが満足している《近いうちに使えなくなるというので困る》)
人間は「原子爆弾」を発明し、「ホロコースト」もできることがわかった。
(歴史はくるところまできたような気がする。原子爆弾を使いホロコーストすれば歴史は消える)
そう考えると、際限なく進む科学技術に、今のうちにストップするか、(ストップは
無理でもブレーキ)をかけるか進行方向を反省し修正しないと、たいへんなことが
起きるかも…と、これらの小説は教えてくれている。
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作者たちは人類がずっとつづきますようにと(自分の小説を書く能力、才能は、天が与えた
使命かのように思って)祈るような気もちで、こういう物語を書いているのでは…と
感じた。
『ハーモニー』は、身体は「健康」心は「真善美」という人間の永遠の目標が、
険しい山岳地帯などきびしい自然環境のごく一部の地域や国々以外、ほぼ実現した
世界が背景になっている。
人間の脳に組みこまれ、インストールされたICチップ(「WatchMe」という)によって
(まだ死そのものは克服されていない、つまり「永遠の生」は実現できていないが)ほとんどの
病気には罹らないように、たとえ罹ってもすぐ治るように、栄養や体形は理想の
状態に保たれるよう調整されつづけているのだ。
そんな未来世界は、21世紀に起きた「大災禍」と呼ばれる地球規模の核戦争(テロなどによって容易に
原子爆弾が拡散し使われた)のあと、生きのこった人間の知性のもとにつくられた。
が、主人公たちにとっては「ディストピア」でしかなかった。
〈おことわり〉
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具体的な話の流れまでは触れません(それはネタバレしないつもりではなく、うまくまとめて書けない
からです)。
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ところで、『ハーモニー』から、歴史学者のハラリという人が著した
『ホモデウス』を連想した。
ハラリは前に『サピエンス全史』という本を書いて世界的に有名になった。
本は、ホモサピエンスの脳に7万年まえ「認知革命」が起き、人間は「虚構」(言語などの記号から
イメージなどさまざま。まとめて「バーチャル」)を手に入れたことによって文明と文化が始まり、
科学技術文明はより豊かな生活を求めて欲望し、科学技術文明を前へ前へと押しすすめ、
今日のような繁栄(ある意味では一つの頂点)を築いたことを著した。
ハラリは思考をふかめ、ホモサピエンスはいずれ「ホモデウス」とでも呼ばれる
ようなものになるだろうと『ホモデウス』を著した。
「デウス」とは神である。「ホモデウス」は「人間」+「神」という矛盾したものを合わせた彼の造語
最新の医学・医療におけるバイオ技術の進展は生命そのものを対象としている。
(「神」そのものが人間の創作なのだから「神の領域」なんてあるわけない、「神《仏》は死んだ」
「人間そのものが神」)
一方、地震など大災害をもたらす自然現象の研究は、予知など不可能と断念された。
こっちでは神になることをあきらめた、やめたのだろうか。
※ 以下の引用はネット検索で「Forbes Japan」というサイトに述べられていたものです。
【引用】「ホモ・デウスとは何を指すのか
人類の歴史を振り返ると、飢饉や疫病、戦争によって人々の生存は脅かされてきた。…
いまやこれらは克服されつつある。
もちろんこれらの問題が根絶されたわけではないが、実際には飢饉で死ぬよりも肥満で死ぬ人の方が多く、
疫病よりも老化で、戦争よりも自殺で死ぬ人のほうが多い
…
ハラリは、この3つの問題を克服しつつある人類は、次のステージに向かうのではないかと見ている。
次なるステージで人類が目指すのは、不死と幸福と神性の獲得だ。
サピエンスは自らを神(デウス)にアップグレードさせ、ホモ・デウスになるのではないか
…
科学革命は人間を自然から切り離し、世界の中心にすえる人間至上主義を生み出した。
人間の命や心、意識などを特別視する世界観が支配的となったのだ。
だが現代の生命科学者たちは、すべての生命はアルゴリズムであるとする。
私たちの意識は、ニューロンが発する信号によって脳がデータ処理を行うプロセスの副産物に過ぎない。
現代の脳科学では、私たちの自由意志ですら虚構だとされる。
魂や自由意志にかわってクローズアップされるのは、遺伝子や免疫機能である。
「ホモ・デウス」が描き出すのは、私たちが想像もしなかった未来だ。
…
テクノロジーと人間至上主義が結びつく時、あらたに主役として躍り出てくるのは、
その先にあるのは、人間の意志や経験よりも、データを信頼するデータ至上主義だ。
…
外部のアルゴリズムが、人間自身よりも人間のことを詳しく知っているという社会が現実のものとなろう…
たとえば人間ドックでがんが見つかった場合、あなたはその結果を人間の医師と機械と、どちらから告げられたい
だろうか。おそらく多くの人が人間の医師を希望するに違いない。
なぜなら人間にあって機械にないものは、思いやりの心だからだ。
…
外部のアルゴリズムが力を持つ社会は、人間がいらない社会でもある。
…
選挙で誰に投票すべきか、どの職業を選択すればいいか、すべてビッグデータとコンピュータアルゴリズムが
決めてくれる社会。そこでは個々の人間は、巨大なシステムにデータを提供するだけの、
たんなる道具のような存在に成り下がるかもしれない。
このように書くと、ハラリの予測する未来はディストピアだと考える人もいるかもしれない。だがそれは早計だ。
この本は絶望的な未来を描き出したものではない。歴史学者であるハラリは、本書の中で未来は変えられる
と繰り返し呼びかけている。歴史を学ぶことで、私たちは過去から解放される。
そして昔の人が想像もできなかった可能性や選択肢に気づくことができる。過去だけではない。
なによりも私たちの思考や行動そのものが、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けている。
歴史を学ぶことは、それらの成り立ちを知り、制約から自由になることにもつながるのだ」
(注:「」、太字太字はこちらでしました)