②事前指示書(リビングウィル)
「事前指示書」も「リビングウィル」も、初めて知ったのは中年を過ぎてから。
(とても大事なことなので、もっと早く知りたかった。
生きておれば悲喜こもごも。突然、不幸や災難に見舞われることもある。
そんな深刻なこと、一大事はいつ起きるかわからない。子どものときから知っておきたい。
《子どもは人生経験が不足しているので実感をともなった深い理解はむずかしいけれど、
年齢に応じた「事前指示書」「リビングウィル」の理解はできると思う》
できれば学校教育のカリキュラムでも取り上げてほしい)
よりよく生きるために「死」を想うことは大切で、「メメントモリ」という言葉も
知ってはいたが、観念、言葉のうえだけのことだった。
実感としてわが身に迫る「自分ごと」ではなかった。
難病や重篤な病気を患い、重度の障害を抱えている人、老人ごと、
「他人ごと」だった。
(十数年前に知ったときは「自分ごと」になっていたので、実際に作成した。
作っても、気が変わることも起こるので日にちを決め《例えば誕生日》毎年きちんと見直すことが
大切といわれる《わかっているが、老いの身にますます1年は短くなり、更新を忘れる》)
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「〈事前指示書の作成にあたって認識すべきこと〉
生きられる土台をつくることが、死に方を決める前に優先されるべきである
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医療は一律に「過剰」「無駄」などとは言えない…
我々は機能主義的、優生学的な考え方に、知らず知らずのうちに染まっているので、
最近、重篤な病気に罹った人は、かわいそうで尊厳が奪われてしまうと思わされている節があります。
…
家族の都合を優先させると、患者本人に治療拒否の自己決定を迫ることになりかねません。
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医師は患者に対して意思決定を急がせたり、事前指示書の作成期限を設定したりしないことが大切…
障害(また難病)は誰のせいでもなく、社会の在り方を変えることで軽減できるもの…それなのに
「自分で選んだ治療なのだから、将来どんなことになっても自分の選んだことだからね。
誰も助けてくれないのよ」という説明は、大変に不当に聞こえるものです。
…
家族は患者よりも医師の意見(裁量)を尊重する傾向にあります。
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難病ALSについて、ネットにはこう書かれている。
「筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて
力がなくなっていく病気です。
しかし筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かしかつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)が
主に障害をうけます。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、
筋肉がやせていきます。
その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です」
ALSは徐々に病気が進行し、自発的な呼吸ができなくなり、死にいたる。
けれども、人工呼吸器というすばらしい医療技術を利用すれば生き続けられる。
死ぬまで生き続けられるのだ。
-問題は、ウン悪くALSになったとき、誰もが安心して人工呼吸器を装着して
少しでも長く生きられるような社会をつくっていくこと-
「生きられる土台」のある社会では、
「息さえできればいい」「生存できれば…」という生理的なレベルではなく、
直接かかわってくれる人たちが人間としての尊厳をもてる、感じられる介護、
援助をするので、安心して人工呼吸器を装着できる。
人工呼吸器の装着をためらうことなく当たり前のようにする。
(装着拒否という「死の選択」の意思表示が《脳の働きは正常だからさまざまなことを感じ、思い、
考えられるのに、身体がついてこない、自力で動かせないことのたとえようのない苦痛から逃れる
ために》なされることがあるにしても、それが当事者の本心とはいえない。
《「本心」「ホンネ」というのは怪しい。人は一人で生きていけないから、周囲の空気、圧力を感じ
読みとる。周りに迷惑をかけることが辛いと思って装着しないことがある。
ほんとうは装着したい。人間も生きもの、動物である限り、「生存本能」「生存への欲望」はあって
当然だと思う》
「人工呼吸器」のようなすばらしい科学技術があっても、その科学技術の恩恵にあずかれない人々
がいる)
(グーグル画像より)
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「機能主義的、優生学的な考え方に、知らず知らずのうちに染まっている」
「重篤な病気に罹った人は、かわいそうで尊厳が奪われてしまうと思わ…」
の部分は、強く反省させられた。
ちゃんとした身なり姿をし、しっかり他人とコミュニケーションを行い、
恥ずかしくない態度をとれるという「機能主義的、優生学的な考え方」人間観で、
自分も他人も「知らず知らずのうちに」に見ていた。
私は自分が当事者になったら「この痛み、不自由をなんとかしてくれー、
なんとかできないのなら死なせてくれー」と叫び、のたうち回りそうだ。
それはたぶん、「尊厳」どころの話ではなさそう。
しかし、「この痛み、不自由を…」とぶざまに叫んでも、その姿、態度を
「かわいそうで尊厳が奪われてしま」っていると思われないような社会で
あってほしい。
〈おまけの話〉
こんな一文があり、強くうなずかされた。
「疾病の状態にある人を「患者」ととらえるのではなく、「病いを有する人」…「病いと生きる人」
として、病気はその人の一部であり、その苦痛や困難にさらされながらも、
よりよく生きようとひとりの人間としてとらえること」