『なりゆきを生きる』 玄侑宗久
を読んだ。
著者、玄侑さんは福島県三春町(日本三大桜といわれる推定樹齢1000年の
「滝桜」のあるところ)の僧侶で、作家でもあり、これは東京新聞などに長く
連載されていたエッセイが本になったものです。
「なりゆき」は「成りゆき」で、なりゆきに身を任せるのが好きな者としては
励まされている気がしました。
(ただ、こんどのj党 の総裁選をめぐる流れを見るとたまらなくイヤになる。
sg氏。もともと総裁なんて気はなかったと思うが《いや、あったのか》ボスたちに
担ぎ出されたロボット・傀儡のような姿をみると、《決してヒガミではなく》
こんな「なりゆき」には身を任せたくないなと思った。
ひと口に「なりゆき」といってもこういうのもある)
人生に「初心」とか「志」はたいせつなことで忘れてはならないと思うけれど、
忘れなくても(原因は自分の力量不足であれ、ウンが悪かったことであれ)
「思いどおりにはならない」「挫折がつきもの」だということを身をもって知る。
そんなとき、これまでの自分の来し方を思い、「なりゆき」に目を向けてみる。
(前に書いた脳学者・茂木健一郎さんの「偶有性」《「偶然」をたいせつにし、
自分の存在のあり方そのものにも「偶然」をみること》を思いだした)
エッセイはどれもすばらしいのですが、好みで選んだ四つの話だけ紹介します。
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① 負けるが勝ち
【引用】
(生まれてからずっと耳が聞こえなかったキヨ子さんが高齢となって死んだ)
負けることがそのまま勝ち、ということは、
その一瞬のうちに価値観の転換があるということだ。
こちらのモノサシでは確かに負けかもしれないが、
この価値観だったら勝ちでしょうという転換が、即座になされるのである。
これは言わば、価値観を一本化していない生き方…
(注:赤、(黒字)の書き加えはこちらでしました。②以下の【引用】も同じ)
生まれてからずっと耳が聞こえなかったキヨ子さん
彼女の人生は不幸だったと誰がいえよう。
「負けることがそのまま勝ち」というよりも、
キヨ子さんの世界には勝ちも負けもなかったのだろう
と思う。
「勝った、負けた」などの価値が愚かしく見える。
つまらない価値(「つまらない」と思った時点で、私も価値判断していました)を
超越した事実の世界の重さに押し潰されそうだ。
「私は生まれてからずっと耳が聞こえなかったけれど
幸せだったよ」とキヨ子さんの声が天国から聞こえて
きそうな気がした。
② 解らない
【引用】
(離婚が増えた)
もしかすると、結婚が破綻するのは相手を「解った」と思ったときではないか。
「解らない」ことは相手の魅力にも繋がり、そう思う本人の謙虚さでもある。…
帰依も結婚も、「解らない」と思えばこそ「永遠」の道になるのではないか。
(注:(黒字)はこっちで書き加えました)
そうやすやすと人を判断し、解ったと思いこんでは
ならないと思った。
それに、解らなくても謎のままでもいいのでは…
だいじなことは相手を信じることだとも。
よく考えれば、「信じる」というのは(程度はさまざまでも)解らない相手に
対してのことでした。
(うまい話、身内の心配や同情を駆りたてる話を信じ、詐欺に遭うのはいまの場合
別な話)
③ 金と銀
【引用】
(昔の日本では金は金、銀は銀で、両者が差別されることはなかった)
つまり日本人は、一つの原理を常に真理として奉るのではなく、
状況のなかで最善の着地点をその都度探すという「直観」の文化を築いていった…
両極端を踏まえつつ、その間に最適な在り方を求めるこの生き方は、
仏教の勧める「中道」にも適い、また考え方の違う相手への寛容さ、やさしさをも
育んだのである。
金と銀に変化が起こったキッカケはもしかしたらオリンピックだろうか。…
(注:()はこっちで書き加えました)
金が上、銀が下(銅を含めれば銀が中で銅が下)という見方を
昔から日本人はしなかった。
それぞれが他には代えられない存在。
「NO1」ではなく「オンリー1」(「オンリー1」に納得していても「NO1」を
目ざそうとする。そこが人間の矛盾したところで面倒くさいけれどかわいい。
「努力」の原動力になるんですね)
「変化が起こったキッカケは…」になんどもうなずかさせられました。
④ 世界から戦争をなくすいちばんの道
【引用】
(最近は出生前診断でダウン症などが事前に分かり、その診断を受ける母親も
どんどん増えているという。けれども、受けずダウン症の子どもを授かった母親は
幸せいっぱいに言う)
「こんな子が、一家に一人いたら、世界から戦争なんてなくなると思いますよ…」
(注:()はこっちで書き加えました)
戦争だけでなく、未来にかけての人類が直面する
危機はみんな避けられると思う。