カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.3.29 わたしの死…(後)

残りの今日は

山折さんの①共生と共死〉、高木訷元さんの②科学技術文明における死生観  柳田邦男さんの③「生きなおす力」を探る-悲しみこそ真の人生のはじまり

 

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① 共生と共死  山折哲雄

山折さんは「この世とあの世の連続性」ということで、生と死は)

緩やかな連続性があって、その中でこの世から旅立っていく

それは)「プシケー」ギリシャ語で「蝶々」をいうが同時に「魂」という意味があり)

別の世界に赴く(死んでいく)ためのイメージ・トレーニン」(が大切だといわれる)

・(死は自分一人のものではなく)「共に死んでいくということ」(を想うことも大切だと)

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鈍い私はここで述べられていることが直ぐにはピンとこなかったが、

何度か読みかえしているうちに、ジワジワきた。

 

イメージ・トレーニン」の大切さは(身体を動かすとき、イメージを持つといいと

いわれる)よく分かっているつもりだったけれど、身体の動きや運動だけでなく

「死」へも有効、適用できることを知り、何か得したような気持ちになった。

その際、つまり生から死への移行はちょっと時間がかかるらしいので、具体的に

蝶々か魂に化けた気分でフワフワと旅立つ。

(これはよさそうだ。さっそくやってみよう!)

 

     


自分の死ということは、自分からは現実世界の方は
すべて無くなる、消えること

なので、自分を中心に死を見れば「(自分一人が死ぬ事実だけでなく、生きているとき

その自分が見ていた世界すべてが共に消え失せるので)共に死んでいくということ」

でもあるという考えも成り立つ。

(なるほど! そう考えると、山折さんの真に言いたいことを外れているかもしれないが、

私にはそういう共生と共死〉の解釈もいいと思えた

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② 科学技術文明における死生観  高木訷元

(高木さんは僧侶、また僧侶の大学の先生で、現代の「死生観の問題のひとつは脳死の概念

もう一つは「尊厳死」といわれる)

医療も、ただ単なる生との関わりとしてのものではなく、死との関わりにおけるものが…

なければならないと思います。

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医療も、ただ単なる生との関わりとしてのものではなく、

死との関わりにおけるものが…なければならない

がすごく重く響いた。

 

患者を「見捨てない」ことは医療の基本、原点、根本だ。

それには誰も異論がなくても、「見捨てない」ことの中身についてはいろいろある

だろう。

「いろいろ」の中には、治療にこだわり続けるのをやめるという選択肢もある。

(もちろん選択は患者さん、家族がする。)

 

医者たるものは「最後の最後まで患者さんの病気からの快復、つまり病気を治し

より長く生きてもらうことに全力を尽くすべき」というのは立派な姿だとしても、

最善を尽くしても明らかに回復は望めない、死を待つだけと判断できる場合は、

「最後の最後まで患者を…」という治療にこだわり続けるのではない姿勢は、決して「見捨てる」

のではない患者本人のりの人生をいちばん大切に考える。

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少なくとも自分が読んだ本(小説、それ以外を問わず)にはすべてそういうことが

述べられてあった。

死との関わり」という言葉はなかった(覚えていないだけ)けれど、みんな、

どう生き抜くか、どう自分の人生をしめ括るかという視点から書かれていた。

 

(私の胃がんはスキルス性ではなかったので死を想うことは《同時に、脳外傷を負ってすでに

入院していたこともあって》あまりなかったが、担当医はやさしい先生だったので、その先生が

医者としての治療技術水準が一般的《よほど未熟だと感じればまた違ったかも》ならば死んでも

かまわないと思った。

 

「死」ということで連想し、話が変わるけれど、先日、録画しておいたNHK

追跡「滝山病院事件」“不可解な医療”も 精神科病院で何が?

 

という番組を思い出した。

こっちはまったく「死生観」という問題ではなく、患者が病院によって殺されているという人権侵害を

告発。

世間からはその実態がほとんど知られていない精神病院。滝山病院事件はたまたま暴かれた氷山の一角

なのだろう。

一部の精神病院の闇は聞いてはいたけれど、これほど人権侵害が横行、酷いとは想像していなかった。

しかし、生の映像と音声で、実際にこういう「虐待」としか呼べない「医療」《「看護」「介護」》

現場を見聞きしとても胸が悪くなった《人によっては吐いたり失神するかもしれない》。

この病院での「退院理由」の多くは死亡なのだ。死ななければ退院できない)

 

      


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③ 「生きなおす力」を探る-悲しみこそ真の人生のはじまり  柳田邦男

・物語性の中で「生きなおす」

(柳田さんは、東日本大震災も経験された名取市在宅ケア医岡部健さんの言葉を引用して

「死は、常に不合理で非条理なものです。不合理で非条理なものをきちんとマネジメントケアできる

ようなシステムといったら、やはり宗教…臨床宗教家」というものが求められること、

また同じく岡部さんの「あの世を語れない医療従事者に、あの世を信じている人の看取りはできる

のだろうか」も引用される)

「時間が経てば忘れる」とよく言うけれど…、しかし、それでも生きなおすことはできる。

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物語性の中で「生きなおす」

 

物語を創ってみることの大切さは、

前回の記事での柳田さんの言葉、「生の残りが短いとわかったとき、つまり人生の

”最終章”に入ったとわかったときには”最終章”くらいは過去形ではなく

同時進行形で自分で書く、言い換えるなら、創作するという心構えで生き抜く」の

通りだと思う。自分も残りをそんな気持ちで生きたい。

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あの世を語れない医療従事者に、あの世を信じている人の看取りはできる

のだろうか

 

あの世を信じている」患者さんには「そうですよね。あの世はきっとあります」

あの世を信じてい」ない患者さんには「私はあの世はある気がします。死んだら

の世で父や母、懐かしい人たちいっぱいに会えると思ったら楽しくなります」

と言える、「不合理で非情理」な死を強いられている人の気持ちを受けとめられる

臨床宗教家」。

 

人の心はほんとうに複雑だ。

臨床心理士」や「カウンセラー」とはまた違う宗教から。

 

 

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                          ちりとてちん

今日の一句

人生は 陳腐なるかな 走馬灯  高浜虚子

 

 

 

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