「世界を引き受けるために」
大風呂敷を広げるような話ですが、私もよく広げます。
(でも、「大ぼら吹き」とは思っていない)
実際がどうでも、気もちだけ壮大であっても、世界の創造主(もしも、そのような方が
おいでになれば、これ以上ない寛容なお方に違いない)は、お許しになるに違いない。
ーーーーー
「現代物理学は、統計的な意味における決定論に立つことになった。…
同じような「個」を沢山集めてきた集団の統計的なふるまいについては、
原理的には完全に予言できる。
…
(苛酷な環境の南極で、ペンギンたちが、そのまま寒さと飢えに耐えつづけて死ぬか、
待ちかまえるオットセイに食われる危険を冒しても生きるため、魚をとるため海に飛び込むか?
その場合)
科学は、あるアルゴリズムに従って飛び込み続ければ、死ぬ(食われる)確率は10パーセントで、
遺伝子が残る(食われない)確率は90パーセントなどと教える。
一方、一羽のペンギンにとっては、死ぬ確率は0%パーセントか100パーセントのいずれかである。…
科学にとってはN=1のデータに過ぎないものが、ペンギンにとってはこの世に受けた生の全てである。
オットセイに食われてしまえば、それでお終いである。…
私たちは、常に0パーセントか100パーセントかの個別を生きている。
…
統計的な真理しか問題にしない現代科学からこぼれ落ちる広大な領域。
個の生の主観的体験に寄り添う時に見えてくるもの。それこそが文学に固有の領域である。
現代科学は、物理学にせよ、進化論にせよ、統計的な真理を扱う。
一方、文学にとって統計学ほど遠い存在はない。
科学が、統計という形で個を宇宙の全体性の構成要素に貶めるのに対して、
文学は、あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、
世界の全体を引き受ける普遍学としての可能性を志向する。
…
ペンギンはいつかは(海に飛び込むことを)決断しなければならない。
その決断の方式を決めているのは、おそらくは進化論の理屈である。すなわち科学的真理である。
統計の問題である。
その決断が、個々のペンギンの生にとってどのような切実さを持つかということは、
主観的体験の問題である。…
文明の中で生きる人間が、都会の灯の中でやさしく談笑している時も、遠く離れた白い大地では、
皇帝ペンギンのオスがぎりぎりの選択を迫られているかもしれない。
そのようなものとして世界はある」
(グーグル画像より)
ーーーーーーーーーー
首が痛くなるほど何度も深くうなずいた。
いつも胸に抱いているモヤモヤ、自分が生きていることの不思議な感じ、思いの
正体を教えてくれるヒントがいっぱい詰まった文章だった。
「私たちは、常に0パーセントか100パーセントかの個別を生きている」
そうでしかあり得ない。
死んでいない限り、生きているという事実だけではなく、
私は私でしかあり得ない。
自分の人生しか生きられないのだ。
「世界を引き受ける」とは、
「そのようなものとして世界はある」という事実を知り、
その事実を覚悟して生きるということだろうかと、私は思った。
(私は南極のペンギンだったかもしれない)
ーーーーー
20代前半のころ、高橋和己という作家に心酔していた。
その人の作品のいずれからも、人は社会の中でしか生きることができないけれど、
その人が自分の人生に誠実であろうとすれば、必ず社会と衝突するということを
そのころの、いまよりずっと感じやすい心で感じた。
「文学と政治」は相いれない、矛盾するというようなこと。
人間社会に政治は欠かせないが、文学はそうではない。
(文学的発想しなくとも、社会はちゃんと回ってゆく。維持されるのだ)
が、個人にとっては人生そのものが文学で、政治こそ不要に思える。
(政治はたいせつだと思っていても、私は「どうでもいいや…」と言うことが増えた。いま
最悪の政治不信に陥っている)
茂木さんは、「科学が、統計という形で個を宇宙の全体性の構成要素に貶める
のに対して、文学は、あくまでも個の体験の特殊性に寄り添いつつ、
世界の全体を引き受ける普遍学としての可能性を志向する」という。
私もそう思う。