10年前、仙台の自宅にいて東日本大震災に遭った岩田靖夫さんという哲学の先生の
本を読みふかく考えさせられた。
岩田さんは10年前でも老人。
6年前に83歳で亡くなられている。
多くのことを勉強され、教えてこられたけれど、それらの業績をふくむ人生が
一瞬にして無に帰するというとてつもない災難に遭遇され、学問自体をあらためて
問うところがあった。
本でそれを述べておられる。
(不慮の事故を体験したので胸にしみこんだ)
もともと哲学は「人間とは」「人生とは」「世界とは」?と根本から考えてみる。
著者は老いて初めて、「死んでいたかもしれない」というショックを体験された。
「生死」という人生の根本問題を、それまでのように頭、観念のなかだけのこと
ではなく、「恐ろしい!」という感情をもって突きつけられた。
「愛」や「慈悲」、「救い」など心の問題が切実にせまったきた。
だから、この本は(心をあつかう)宗教にもたびたび話がおよんだ。
ご本人はキリスト教(カトリック)信者なのに、仏教、ことに浄土や阿弥陀如来への言及が
とても多かった。
『極限の事態と人間の生の意味』 岩田靖夫 著
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私がとてもつよく感(「思」や「考」より合っている)じたことは二つ。
一つは、このブログでもよく書いている「偶然(性)」について。
もう一つは、「無限」や「永遠」(「神」のような絶対的なもの)と呼ばれるものは
「今」(この瞬間)であるということ、今をのぞいては存在しないということ。
そういうことはよくいわれるけれど、私自身はこの本を読んで初めて自覚した気がする。
初めて、「感覚」をともなって受けとめることができた。
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① 偶然(性)
「なぜあの人には起きて、この人には起きなかったのか?」
「自分は生きのこり、あの人は死んだ…」
しかしその事実は、反対だった「かもしれない」のだ。
この「かもしれない」という発想を「偶有性」という言葉として初めて知ったのは、10年ほど前、
茂木健一郎さんという脳科学者の一般向けのわかりやすい本を通じてだった。
茂木さんの体験が具体的にのべられており、それに基づいた小学生でもわかるような理屈が私には
衝撃的だった。
(「かもしれない」という発想を知ってからこれほど経っても、人生のキーワードのように大事にする
とは想わなかった)
いまの話からは脱線するけれど、20代の終わりに自動車学校にいったとき、先生が事故を防ぐには
(ぶつかっていた)「かも…」運転をこころがけなければならない、(大丈夫)「…だろう」運転は
事故につながる、と教わったことを免許返上したいまも忘れない。
「かもしれない」は、現実の自分を最後には肯定する(「これでよかった」「これでいいのダ」
「ありのままの自分がいい」)ために、想像力をいろいろな人や人生、時や場所などに遊ばせてみる
智慧(遊行)かもしれない。
「かもしれない」とは可能性のこと。
私も青春時代には人生をまじめに悩んだが、同時に未来はわからないからこそ
おもしろいのだとある意味、楽天的にかまえていた。
自分は何に対しても能力がたりず、不可能なことだらけだとわかっていたけれど、
観念だけのこととはいえ、人間(その抽象的・曖昧な言葉で自分をごまかしていた)は
「可能性にみちた存在」と本気で思っていたのである。
世間や自分を知らないからこそ思えたわけだ。
老いて「自分が何者か」をほとんど知ったいま、生身としての可能性は消えかかっているけれども、
読書などをとおして新たなことを知り、いろいろなことを想像するのは可能で、「かもしれない」という
人生のおもしろさだけは強く感じている。
リアルで何かになる、なしとげる可能性は100%の死をのぞき、限りなく0に近づいたけれど、
「知らないことを知り」「想像力をはたらかす」のはバーチャルで可能なのだ。
そのときまで可能性をふくらませたい。
「かもしれない」とはまた個別性のこと。
自分は今こうあるけれども、ああであったかもしれない。
現実というのはさまざまな可能性が偶然として個別に現れただけのこと。
人間なら、個人として。ただ、それだけのことなのだ。
「ただ、それだけのこと」だから何にも代えがたく尊いのだ。
先日ふっと思ったことがある。
いろいろなことで自分より優れた人たちをみる。自分にはない能力、魅力を感じる。
私にはそんな取り柄(能力など)がほとんどないか少なくても、それに恵まれた人たちの表現、
知恵や技術に感動し、学ぶことができる。
味わい、知る喜びをもてる。
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② 「無限」「永遠」「神」とは「今」のこと。
この場・この瞬間を意識し、思ってこそ、まさに自分は生きているのだ。
過去や未来は今ではないが、それらを感じ、思い(想い)、考えるのは、
「今、ここ」だけ。
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初めにも書いたように、
長いあいだの哲学研鑽のなかで、著者には何か重しとなるような信条ができていた
のだろうが、東日本大震災という名状しがたい地震、津波の恐ろしさ、その現実を
前にして、あわてふためくことしか出来ない老いた自分を自覚し、
哲学でえた「観念」や「知識」というものが頭のなかにいっぱい存在していても、
それはまったく生きる力になってこないということに気づき、愕然とした。
この本では、
「観念」や「知識」というものは必ず、心がともなった、愛に裏づけされたもので
なければならないと、深く考えられたことを述べられていた。
被災者同士が助けあう姿、非被災の国内外をとわない支援する人々の姿を実体験し
人間が生きていくのにいちばん欠かせないだいじなものは心だという、
あたり前の事実を、むき出しになった東日本大震災という現場で肌で、
身をもって痛感された。
そのこと自体が「救い」になったという。
「神」「仏」を、そのとき岩田さんは確かにみたのだと思う。
じつは、ここから本からの引用を書こうと思っていたのですが、長くなるので次回にします。