何かでこの本のことを知り、書名にも惹かれて読んだ。
分厚く(800ページ近い)2500円と高価。
もちろん図書館から借りた。
こんな本が気軽に読める図書館のありがたさを、あらためて感じた。
(働いていたときは「借りる・返す」のが面倒で、図書館を利用したことはない。
夜のホッとした時間は新聞に費やされ、その後の読書は眠くて2、3ページがやっと。
で、読みたい本は少なく買っていた《少なくても「積読(ツンドク)が多かった》)
全部で七つの話がある大著で、私の読書力ではずいぶん時間がかかり、結局
四つはとばした。
半分も読まなかったが、買っても惜しくないほどよかった。
(グーグル画像より)
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「北」とは北海道のこと。
これまで北海道の地方自治体の観光課、旅情報誌などの依頼を受けて
たくさんの記事を書いてきたが、それらを参考にしながらも、
いまは無人駅となった七つの土地と、そこに暮らす人たちの取材を何年も続けて
知ることになった事実と、その事実を通して感じ、思い、考えたことを一冊の本に
したのがこれ。
私の心に強く印象に残ったのは
①「タンチョウと私の「ねじれ」ー(釧網本線・茅沼駅)」
の三つの話。
次のブログから一話ずつ、書きます。
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その前に、著者の北海道への深い思い、愛情について一言。
(グーグル画像より)
渡辺一史さんは、北海道生まれの北海道育ちというわけではない。
若いころ、たまたま北海道と縁があり、北海道でフリーライターの仕事をすること
になったに過ぎない。
北海道を取材すればするほどさまざまな事実を知るから、また取材を続ける。
その膨大な取材で知り得た事実の背景、本質に迫ろうと、いろいろな資料を調べ
考える。
(それが著者の真骨頂ともいうべき姿勢)
調べ考えたら、本州、四国、九州のどこでもあり、あり得る話だということが
わかる。
そこがどれほど生活しにくく、辺鄙であっても、その土地とそこをこよなく愛する
人々への、著者やさしい眼ざしは変わらないと(読んでいる最中から)強く感じた。
①は、いまでは日本の特別天然記念物になったタンチョウを通して「自然保護」の
難しさを、②は、冷涼な北海道では不可能といわれたコメ作り農家を通して
「農業問題」の複雑さを、③では、明治に本州から北海道に渡った父祖が命がけで
切り開いた村が国の政策「平成の大合併」で、いとも簡単に消え去っていくことの
「地方自治」の無念を、それぞれの「北の無人駅」に託してあらわす。
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切り口は北海道の無人駅でも、いずれの話題も全国各地に見られる問題で、
この国、社会の根深いところを抉りだしていた。
「社会問題」という抽象的なものが存在するのではなく、それは必ず、
ある時代のある土地で、目に見える具体的な個別な姿・形として現れる。
①は「自然保護」、②は「農業問題」、③は「地方自治」で、それぞれ理屈、原理
理念がある。
でも、それは「机上」ですませられる点ですべて共通しており、①も②も③も、
そこで理屈、原理、理念、「あるべき姿」「理想」が語られても、現実は矛盾し、
さまざまな問題が存在する。
たとえ「ない」ように見えても、「いまは『ない』」のであって、先はわからない。
「こっちでは『ない』」のであって、あっちではわからない。
しかし、③で述べられていた著者の言葉、
「一つの「村」の始まりから、その終焉までを見届けたいま、あらためて実感するのは、
時代とか社会とか制度とかではない、人間という存在そのものの難しさでもあり、そのおもしろさ、
たくましさでもあった」
が強く心に響いた。
そして「おわりに」の言葉も。
「小説やフィクションであれば、容易に乗り越えられるであろう問題が、ノンフィクションとなると…
長いスパンでその地域を見続けること(にならざるを得ないし、それが本当にたいせつなこと)」
久しぶりにノンフィクションの醍醐味を感じた。
(このところ、「事実の重み」ということを強く感じていたので、私にはピッタリきた。
つい先日、NHKの特集ドラマ『天使の耳 交通警察の夜』というのがあった。
《こっちは「ドラマ」、フィクションです》
「ただの路上駐車」という誰もが気軽にしそうな一種の迷惑行為が、人を死なせる事態につながった
という話が重く心に残った。
人を死なせても、つまり、その路上駐車が人を死なせる事態になったとしても、路上駐車した人に
現在の法律では重い罪は与えられない。
その話では、その理不尽にやり切れない準主人公の交通警察官が、法律が機能を果たさないなら自分が
ということで罰を下す、つまり「私刑」。
ドラマには他の話もあった。「交通事故」はあふれるほど多く、日常的になっている。
けれど、その一つひとつにそこだけの、とてつもなく深くて重い悲しい「事実」があるということを
強く感じさせてくれた)