カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.6.27 タンチョウと私の「ねじれ」(釧網本線・茅沼駅)

きょうは①「タンチョウと私の「ねじれ」(釧網本線・茅沼駅)」

 

タンチョウと私の「ねじれ」(釧網本線・茅沼駅)

もめごとのタネは、つねに人間の側にあるのであって、タンチョウや自然の側にはない。

タンチョウを狩猟の獲物にしたり、かと思えば一転、手厚い保護の対象にしたり、

観光の客寄せにりようしたり…と、

   ものごとを複雑にしているのは、いつも人間の方なのだ。

「でも釧路湿原を逃げ場所に選んでくれたってのは、ある意味では正解だったんですよ。

もしそれが札幌や旭川周辺の水田地帯だったとしたら、昔の強い農薬で全滅してた可能性があった。

トキやコウノトリの二の舞だったかもしれない」

(タンチョウに「人工給餌」しなければ、彼らの生存自体が危うくなることの)哀しみを、

もっと深く受け止めなければならないと田中さん(人工給餌をしている方)はいう。…

タンチョウへの給餌を、あたかも「人とタンチョウの共生であるかのように美談して語ったり

「自然保護」とか「人と自然の共生」とか、そんな耳障りのいい言葉をまぶした欺瞞こそが、

最も手に負えないものなのかもしれない

自然は、「規制区域かそうではないか」「国立公園の内か外か」など、人間の区分けとは無関係に

つながっており、湿原を保全するには、そのまわりの森を再生し、水を守っていかなければならない。

中本さんは、つまり、それを実践したのだ。

(中本さんは、タンチョウをはじめ、自然保護にはその周囲の自然を保全じなければならないと考え

個人的に、周囲の広大な土地を買った)

タンチョウは保護され、エゾシカは駆除される同じ一つのまちに、

対応のまったく異なる2つの野生動物がいる。…

同じ動物を「害獣」と見るか、「益獣」と見るかは、その国の文化や時代の観念と色濃くつながりが

あるらしい。

(桑原さんは、日本の自然のあるべき姿として「オオカミ再導入」を考えている人)

完全保護という「やさしさ」一辺倒ではダメだし、逆に完全駆除という「厳しさ」一辺倒でもダメ、

その均衡点を全体のバランスを見ながら探り出していかなければならない、というのが

桑原さんの考え方である。…

トキやコウノトリの再導入、そしてタンチョウ保護も、本来はそうした大きな枠組みで

とらえなければならない問題なのだろう。…

オオカミ再導入」について議論することは、これまでの「人間中心」をどう脱却するかを考える

一つの試金石になるのは間違いない。

たとえ子ヅルが鳴きからしていたとしても、「ギャアギャア、うるさいな」としか感じられ得ない人も

いるだろうし、たとえば、目の前にタンチョウが5羽いたとしても、

それを「タンチョウが5羽いた」としか書けない人と、

「3羽の親子づれと、1組のつがいがいた」と書ける人とでは

物事の見方、とらえ方に雲泥の差があるのだと思う

 

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人は、小さいときの記憶になったつまらない(どうでもいいような)ことにこだわる

ことがある。

私にとっての「タンチョウ」はそういうくだらない記憶とともにある。

 

                    

                         (グーグル画像より)


成長してからは「単調」「短調」と幅が広がったが、
さいころ

「タンチョウ」は「丹頂」として、漢字はわからなくても、鶴の姿が描かれている

化粧品を遠いむかしのどこかで見たような覚えがある。

ネットで調べたら出てきた。あれは「丹頂ポマード」というのだったのか…

(山から木を伐り出すのが仕事だった父が髪の毛に塗っていた記憶はない。

ビシッと決めていた、がフラフラしていた叔父だったか?)

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給餌を、あたかも「人とタンチョウの共生」であるかのように美談として

 

タンチョウが自分ではちゃんと餌をとれず、生き、子孫を残すことをできないまで

自然環境を壊したくせに、いまの給餌」という活動を「美談」にし立てあげて

しまう人間の勝手さ。

他人ごとではない。その「人間の勝手さ」を私も確実にもっている。

そのことをよく自覚しておかなければならない。

 

現代は、身近な自然だけではなく、地球まで視野に入れた環境保護保全

いわれるようになったけれど、ここまで時代・歴史が進んでも、

ロシアのウクライナ侵攻、戦争をめぐる大国の思惑を見ると、人間は自然に対して

だけではなく、同じ人間に対しても勝手だとつくづく感じる。

 

やむなく人工給餌をせざるを得なくなったことの「哀しみを、

もっと深く受け止めなければならない」と田中さんは語る。

 

人工給餌をせざるを得なくなったこと」の事実をまずは知り、そのことを

哀しみ」と感じるよう、私たちは「もっと深く受け止めなければならない」。

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オオカミ再導入について議論することは、これまでの人間中心」を

どう脱却するかを考える一つの試金石になる

オオカミは日本の生態系ピラミッドの頂点に位置するので、トキやコウノトリのように再導入

サル、イノシシ、シカなどの獣害を防ぎ、軽減しようという話)

 

           

                (グーグル画像より)

 

よく人間という動物は、生物のトップ、生態系ピラミッドの頂点に位置していると

いわれるけれど、ホントはそこから、つまり「生態系」からは外れている。

 

生態系ピラミッドの最上部は天敵がいない。いないから繁栄できる。

人間にとっての「天敵」、「天の敵」とは神さまだろうが、神を信じる者には

「天敵」であり得ても、ほとんどの信じない者には存在しない。無敵だ。

そもそも生態系ピラミッドの上の方は量、数が少ないはずなのに、最上部、トップの人間は

無敵なので、いまや80億を超えた)

 

人は自らが繁栄するためにどんどん自然を切り拓き、自分に都合のいいように

利用してきた。

タンチョウは保護され、エゾシカは駆除される」のも、自分の都合。

 

考えようによってはオオカミ再導入の話も、人間にとって都合のいい話かも?

自分が絶滅させておいて、今さら《そこでは》「オオカミが生態系ピラミッドの頂点に位置する」

から「再導入」というのも、議論することはいいけれど、いかにも人間らしい勝手な話に思われた)

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タンチョウが5羽いた」としか書けない人と、3羽の親子づれと、

1組のつがいがいた」と書ける人」の話はとてもおもしろかった。

 

ギャアギャア、うるさいなと感じるか、「元気がはちきれそう」

「こっちまで元気が伝わってきそう」と感じるか、すごく違う。

こんな違いが、先日の中野市でのとても不幸な事件として起きた)

 

 

 

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                           ちりとてちん

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