カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.8.30 「私」という輪郭を弱めてみる

精神科医の片田珠美さんという方との対談から。

ちょっと強引に、「「私」という輪郭を弱めてみる」とまとめてみた。

 

【引用】

「〈禅や精神分析は、無意識とどう向き合うか

煩悩は同じ生命エネルギーなのに、自分にとっていま邪魔になっているので煩悩呼んでいるだけで、

調子のいいときは生命力と言っているわけですよ。

だから禅は、邪魔になっているときだけ煩悩と呼ぶのはけしからん、という立場なんです。

「私」という輪郭を弱めてみる

仏教では不幸の根源は「私」というものだと認識しているんです。

「私の都合に合わない」という感覚が「苦」となる。

だから、「私」の輪郭を弱めたり、「私」の都合を解く訓練こそ必要なんです。…

平凡恐怖とはまさに個性病ですね。

→(庶民のあいだでいわれている「平凡に老いて悔いなしちゃんちゃんこ。これが理想)

人間の心の奥底を最終的には信じる

仏教性善説 

→(これは玄侑さんの説です。その説を意訳すれば「おそらく西洋はそうではない。

西洋の近代科学精神は性悪説的。信じない、疑うことで進歩・発展してきた」

性善説ひとえに「覚悟」そう信じるしかない 

 

(注:「」〈〉(黒字)、→、太字太字はこちらでしました

 

          


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三つのことを書きます。

 

① よく「煩悩」というけれど、あまりいい意味では使われない。

「煩悩がふかい」と表現するとき、ほかに、ドロドロした人間くさいものが

あろうとも、「我欲がつよい」のイメージがいちばんで、ほかは切りすてられがち

 

でも「我欲」は、「生命力」でもあるわけだ。

いってみれば、生命力がほとばしり出たもの。

 

禅の教えでは「邪魔になっているときだけ煩悩と呼ぶのはけしからん」とのこと。

(わかるわかる。 裏表・凹凸・左右・上下…のように、一見したところ対立、反対どうしのようで

あっても、お互いが相手のためになくてはならない関係、相補的な間がらにあるというのは、

禅の根本的なみかた。世界観であり人生観《これを広げれば「縁」に行きつくのだろう》)

 

「自分はなんと煩悩ぶかいのか、あ~ぁ…」とため息をつくのではなく、

「自分の生命力」の強さを自覚し、自信にする。

(「小欲知足」。老いて欲望がへる、少なくても足りていると感じるのはすばらしいことだが、

生命力も減退、薄くなっていることでもある。ギョッとした《単純に「欲望からの解放」と喜んでは

いられない》。

しかしよく考えれば、やっぱり老いて枯れる、「小欲知足」というのは自然でいいのだ、と思う。

「ギンギラギン」の活き活き、そっちも自然で若さの特権だ)

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② 「「私」という輪郭を弱めてみる

 

7.5に『禅僧が教える…』という記事を書いたけれど、そこでの

「自分を大切にする」ことをやめる」と同じことだと思った。

 

「じゃあ自分より他人をたいせつに」ということかというと、そんな単純なこと

ではなく、「私が、私が…」「自分が、自分が…」という態度を弱くしてみること

だと思う。

(①で触れたように禅では二項対立的な考え、みかたをしないで両者を相互的、補う関係のもとに

とらえようとする。

ふだんから「あなたをたいせつにすることは自分をたいせつにすること」だと思っていても、

自分にこだわり感情的になっているときは「「私」という輪郭を」強くしている。

 

私はすごくこのことを感じ、反省するが、これほど老いても我をはりツレを泣かす。

つくづく自分の「私」という輪郭」の強さを思う。

自分なりに努力はしているつもりでも、それを弱める、緩めることができていないのだ。

ひょっとすると、人は生まれつき穏やかな者と怒りっぽい者に大きく分けられるのかもしれない。

ならば私はだんぜん、怒りっぽい人間である。

いくら自己嫌悪を感じても、読書を積み、人間とは人生とは世界とは…とほざいても、変わらない

 

          


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③ 「人間の心の奥底を最終的には信じる

 

仏教性善説

性善説→ひとえに「覚悟」

そう信じるしかない

 

ほんとうに仏教、宗教の真髄をいい当てていると思った

 

人間の心の奥底」を「最終的には信じる」ためには

性善説」に立たなければならない。

性善説」に立つという「覚悟」をもつ。

覚悟」がなければ「信じる」ことはできないのだろう。

 

(本の終わり、日野原重明さんとの対談で玄侑さんは、東日本大震災の被災地をブータン国王夫妻が

訪問されときに言われた「親愛の情を示しにきました」に、「そのことが用件としてちゃんと存在する

ことに感動しました」と述べられていた。

親愛の情を示」すという行為はあいさつなどで個人のあいだでは日常的に行われているけれど、

被災した日本国民をブータン国王夫妻がわざわざ訪ねられ直接親愛の情を示」されることが

そのことが用件としてちゃんと存在するブータンという国がどれほど玄侑さんには眩しかった、

うらやましかったことだろう。

ブータンは仏教国というが、性善説」は憲法のようなものだろうか。

 

そういえば、日本国憲法前文平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼してとあったのを思いだした。

 

 

 

 

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