録画しておいた番組『世界ふれあい街歩き』を見た。
歩くところは仏教国ブータンの首都ティンプー、同じく仏教国タイのチェンマイ。
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■ティンプーは、ブータンの首都とはいえ日本の地方の小さな町という感じ。
さまざまなマニ車(経典や真言が収められており、回すことで唱えたとされ功徳があると
信じられている。街のあちこちには公的な大きいものが置かれ、私的な小さい携帯可能なものまで
いろいろとある)が見られ、多くの人々が功徳を求めて回す。
国民はみんな敬虔な仏教(チベット仏教)徒、信者なのだ。
(グーグル画像より)
ブータンは国の目標として、国民みんなが幸せを感じられることを掲げている。
あるシーンでは、丘のような高いところのベンチに腰かけていたおじいさんが、
目の前のティンプーの街並みや山々、空を眺め、「極楽のようだ」と言っていた。
強く印象に残った。
(温泉に浸かっているときぐらいしか「極楽」を浮かべることがないわが身を思った)
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■チェンマイの露天市場の野菜・果物を売っている店先で、日本の金魚のように
透明なビニール袋に入れられたウナギやナマズが吊り下げられ、野菜などの買い物
ついでのように売られていた。
番組スタッフは、なんで(魚屋さんではなく)オタクで売られているのですか?
と店のおばさんに聞いた。
「(食べるんじゃなく)放すんだよ。放して功徳を積む」
タイミングよく、ちょうどお客のおばさんが現われウナギを買った。
買ったあと、彼女は近くの濠に放しながら、自分と家族だけでなく、
世界中が幸せになれますようにと祈っていた。
(「世界中」というところがステキだと思った)
また、ある路地を歩くと民家の前の塀、顔の高さに水が入っている壺が置かれ、
通りがかりの若い女性が(備えつけの柄杓ですくって)飲んでいた。
これも、功徳を積む行為なのだ。
その女性が「ありがとうございます」と合掌し、「いえ、どういたしまして
(こっちこそ功徳を積まさてもらってありがとう)」と家の主人も返しの合掌をする。
野菜・果物店の人も、ウナギを買って放したおばさんも、水の人たちも、
チェンマイの人は挨拶代わりのように相手の人に合掌する。
その姿も強く、いつまでも心に残った。
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◆ 番組を見ていたら、人が生まれて生きるということは何だろうか?
と考えさせられた。
幸せを感じることならば、富や名誉・名声…社会的な承認を求めなくてもいい、
互いに相手に向かって合掌し合えるところが極楽ではないかと思えた。
(こんな番組こそ、国民・視聴者からとるお金で成りたっているNHKはたくさん作ってほしい。
そして、是非とも地デジで放送してほしい)
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上に書いた『世界ふれあい街歩き』をテレビで見ていたころ、偶然、
『「律」に学ぶ生き方の智慧』 佐々木 閑
(グーグル画像より)
を読んでいた。
題名のとおり、「サンガ」という出家の僧の集団組織の「戒律」から、
現代に生きる私たちの人生に活かせる智慧を見つけようというもの。
(仏教では「仏・法・僧」《ブッポウソー》が大事ということがいわれるが、その深い意味、
つながりが少しはわかった気がする)
①「律が禁じた四つの大罪」のうちの「性行為はなぜ禁止なのか」
②「出家的に生きるということ」
の二つのことだけ書きます。
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(-その前に-
仏教では本来は、僧侶は妻帯してはならない。だけど、日本ではほとんど妻帯は許され家族がいる。
家族がいるから普通の寺では一般的には家族の子どもが継いで維持されているが、
基礎は「檀家」制度にあるから「葬式仏教」と揶揄される旧態依然とした形式を続けている限り、
いつまで続くだろか?…
仏教制度、体制は、本来は世襲ではなく、「志《こころざし》」こそがいちばん大切だった。
何らかの仕事に従事して糧を得るのも禁止されており、布施だけが唯一の収入源だった。
人々に信頼され、尊敬されてこその布施。
ブータンやタイなど仏教国の上座《昔は「大乗」の日本などからは「小乗」と呼ばれていた》仏教は
ブッダが興したその本来の教え、姿を貫いている)
(グーグル画像より)
上座仏教では、出家した人々(早ければ少年のときから親元を離れる)は、
「サンガ」と呼ばれる僧だけの集団生活を営み、
「自己鍛錬」の日々を死ぬまで過ごす。
その「自己鍛錬」、「修行」、「精進」こそが仏への道。
僧侶にとって、無収入のサンガでの生活を維持、継続していくには布施(寄付)が
絶対に欠かせない。
俗に生きるほとんどの人々は、サンガの僧侶に施したり、他人に親切にしたり、
生き物をたいせつにしたり、社会に貢献したりすることで功徳を積み、
サンガに入らなくても、俗にあっても仏の道に近づけるという。
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① 「律が禁じた四つの大罪」のうちの「性行為はなぜ禁止なのか」
「〈性行為はなぜ禁止なのか〉
俗世間の人々が「僧侶は性的に潔白でなければならない」と考えている以上、
その通念に反抗することは難しい。
一般社会の思いに逆らって反感をかえば、社会からのお布施だけを頼りにして生きているサンガは
潰れてしまうからである。
(逆をいえば、「僧侶であっても動物だから性行為をしてもいい」となれば別《日本のように》。
しかし、布施だけで食っていけるかどうかはわからない)」
生きものとしての人間が続かなくなるから、もちろん仏教が性行為を禁止している
わけはない。
(性行為の禁止はあくまでもサンガに入った、出家した僧侶のみ。
仏教を興す前、ブッダがゴータマ・シッダールタと呼ばれていたときは結婚もし子どももいた)
著者は、仏教を広める流布するうえで、純粋に修行に専念できる「サンガ」という
集団を作ったということの画期的なすばらしさを熱っぽく語っていた。
(サンガはピラミッド型の組織ではまったくないが、集団として維持されるために、
こと細かな規則《戒律》がいろいろといっぱいあるとのこと)
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②「出家的に生きるということ」
「〈出家的に生きるということ〉
出家としての科学
「役に立たないことであっても、面白いことのできる者には金を出す」という風潮が生まれ
科学者が科学者として一生を過ごすことのできる環境が生まれてきた。
…
科学は「真理探究の道」であり、…人が人として生きるための必須の精神作業なのである」
著者は「律」に学ぶ生き方の智慧として、サンガのあり方から
「出家的に生きるということ」を提唱される。
サンガでの「自己鍛錬」「修行」のような努力が強く求められるものには、
なかなか凡人にはできそうにない。
しかし、実際に「出家的に生きる」のはできなくても、
「出家的に」(生活や社会を)見るだけで、現実の世界に「おかしい」「ヘン」
「?」と気づくことは多いと思う。
(著者は政治のことにも触れていた。
「理想的な社会、世の中の実現」を求める政治家。
「清廉潔白」な身を信じるから国民は税金という「お布施」をするという。
なのに…)