カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.11.10 教誨師

「死刑」制度は知ったときからずっと気になっている。

 

「死刑」制度。

(国家《公的な権力》が個人《被害者は死亡してもういないから、家族など親近者》に代わって

加害者を制裁《殺》し、恨みを晴らそうというもの。

「恨みを晴らす」のは時代劇では私的制裁「敵討ち」が出てくるけれど、ときどき失敗する。

これを公的権力が100%失敗なく確実に行う。

《個人的には、実際にそういう立場になったらわからないけれど、私は恨みは自分で晴らしたい。

きっと、「成功」「失敗」なんか冷静に考えられるはずない》

ーーーーー

「恨みを晴らす」とはいうものの、死者はいないので被害者本人には「恨み」は存在しないはず。

しかし、残された者、家族など親近者には「恨み」が生まれ、「復讐心」に発展することも起きる。

国家はその人たちの思いを代弁し、「正義」を実現するために死刑を行う。

《「正義」は実現されなければならない。国家はそのために存在するらしい。

だから、ハマスは「不正義」=「悪」なのでと妄想、いや考え、イスラエルガザ地区へ攻撃。

日本政府もアメリカにならってイスラエルを支持》

 

社会の「正義」が実現されるためには多少の個人の犠牲はやむをえないと言う。

なんだか聞いたことがある理屈。そうだ、あった!

社会正義を実現する「警察の威信」を守るため、上層部の巨悪はもみ消さなければならない。

たとえ無実の市民が殺され、冤罪になろうとも。

そういう筋書きのサスペンスがよくある

ーーーーー

パレスチナウクライナなどのドロ沼のような現代の戦争は、昔のような植民地や資源の争奪という

自分勝手な欲望、わがままのためではなく、イスラム原理主義のテロが生まれる社会的な背景にもある

ように、根本には宗教や民族の違いによる迫害の長い歴史がある。

そのことを想うと、社会集団としてしか存在し得ない人間のサガ《性》というかゴウ《業》のような

どうしようもないものが感じられて仕方がない。

 

そういう意味で、どの刑事ドラマでも主人公が最後の場面で、被害者を愛する思いが強いあまり

「恨みを晴らそう」として加害者を殺そうとする人に向かって言う、「加害者を復讐、殺したって

○○さんが生き返るわけじゃない、○○さんはあなたが新たな殺人者になるのを願ってはいません」

を想う

ーーーーー

しかし国家は「正義」を実現しなければならない。

「死刑」も「戦争」も本質では通ずるものがある気がする

 

教誨師』  堀川恵子・著

(グーグル画像より)

 

教誨師」とは

 刑務所受刑者や在監者に、悪を悔い正しい道を歩むように教えさとす人。

仏教僧またはキリスト教神父牧師伝道師などが、法務省任命により当たる

(ネット検索「コトバンク」より)

 

ーーーーーーーーーー

衝撃的な内容、ルポルタージュだった。

すごかった。ほんとうに読んでよかった。

(本に出あったことをこれほどありがたく感じたことはない)

 

読み終え、これまでの自分の「死ぬ」「生きる」、「人間として」の考え、思いを

少しでも変えることはなかったけれど、

「生」とか「人間にこれほどどっぷり浸かったことは思い出せない。

 

ごちゃごちゃ、自分の思い、感想を書くことがためらわれた。

で、終わりのほうでの著者の言葉のみ引用します。

 

        


教誨師の仕事とは「空」であると(生前の篠田龍雄はよく言っていた)…

(著者はルポライターとして、浄土真宗の僧侶、戦後50年も教誨師を務めた渡邉普相さん取材し、

この本を書いている。

篠田龍雄さんは、その渡邉が先輩の教誨師としてだけでなく人間としてたいへん尊敬している恩師)

自ら犯した罪や被害者のこと、残された時間を生きることに思いをめぐららせるためにも、

浄土真宗の)教義を教え込むことより、自分自身に向けて考えるための”空間”を作ることが大切

許されざる罪を犯し、命で償えと送られてくる死刑囚。

彼らの未来は、それ以上でも以下でもない。

反省や更生ではなく、究極の「罰」を受けること。それが、社会が彼らに求めた最後の仕事だ。

そこに宗教者が乗り込んで、何か出来ると思うことのほうが間違っている。

死をつきつけられた人間に対して他人が、そう簡単に「救い」など与えられるものではない。

(長年、教誨師を続けた果てに)その現実を、渡邉はようやく受け入れたのだ。

ただ相手の話に真摯に耳をかたむけ、「聴く」。少しでも穏やかな時間を作る。

偏見を持たず、ひとりの人間として向き合い、会話を重ね、時を重ね、同じ空間に寄り添う。

出来ることは、それだけ。…渡邉は「考えてみると大した仕事じゃないね」

彼が見つめた「死」はいずれも、自然の摂理がもたらしたものではなかった。

(渡邉普相は自身が原爆に遭っている)若き日に広島で見たのは、戦争という人間の愚かさが

作りだした無用の「死」であり、(渡邉が教誨師を務めていたのは東京拘置所東京で見たのは、

人間が法律という道具で作りだした罰としての「死」であった。

私たちは、死に向かって生きるのではない。迷いを重ねながらも、最後の瞬間まで間違いなく

自分という命を生き抜くために、生かされている。

そうであるならば、どんな不条理に満ちたこの世であっても、

限られた時間、力を尽くして生きたいと思う

 

オマケ二つ〉

① 私は死刑制度反対だ。

死刑制度維持の理由によく犯罪抑止論があるけれど、大量の軍備が、核兵器の存在が戦争抑止に

つながっているのというと変わらない。

人間に根からの「善人・悪人」がいるわけではない。状況に応じてどちらにも人は陥る。

犯罪や戦争をほんとうにやめさせようと真剣になるならば、犯罪や戦争を起こしたくなる原因を

減らしなくせばいい。

 

本には教誨師として渡邉普相さんが関わった死刑囚の姿が具体的に詳しく述べられていた。

ご本人の述懐にある-

ほとんどの死刑囚が幼いときから言葉で表わすことができないほどの悲惨な過去を背負っており、

犯した罪は絶対に許されないけど、それだけどん底の生活を強いられ人間不信に陥らざるを得なかった

体験への同情を感じざるを得ない-

 

② 「教誨師」もそうだけど、渡邉さんが著者に言っていたことで強く心に響いたことがある。

それは「刑務官」の立場、姿。

とくに死刑執行の場に立ち会う人。

「誰かがやらなければならない」ということの、言葉で言い表しがたい重み。

 

これを聞いて私は戦場での兵士の心を想った。

刑務官は、「誰かがやらなければならない」ということの、言葉で言い表しがたい重みを感じても

「やらなければ」自分が殺されるわけではない。

 

 

 

 

                             f:id:kame710:20171029114701j:plain

                             ちりとてちん

 

<