今日は残り、③から⑤です。
③ 記憶のテスト〈従属化〉の儀礼
④ 「母性」という名の秩序化の装置
⑤ 親密性の擬制化
ーーーーーーーーーー
③ 記憶のテスト〈従属化〉の儀礼
「〈記憶のテスト-〈従属化〉の儀礼〉
通常の私たちのコミュニケーション上では「簡単すぎて」決して質問することさえ許されないような
「礼儀正しくない」問いであり、であり、それゆえ、当事者においては「侮辱」の経験として、
施設職員にとっては「親密性」の確認としてこのテストは実行されているのである」
ここでいう「記憶のテスト」とは、
介護者が、介護されるお年寄りを相手に定期(日課)不定期(思いつき)を問わず
マニュアル的に「あなたのお名前は?」など、
「簡単すぎて…「礼儀正しくない」問い」を発すること。
結果、お年寄りには「「侮辱」の経験」をさせてしまう。
(《介護者が意図せずとも、これが〈従属化〉でなくて何だろう。
認知症の人は侮辱されたと感じていない、侮辱された思っていないという思い込みを、
決して持ってはならない。
同じ人間としてだけではなく、高齢者、人生の先輩として尊敬しなければならない。
「尊敬」という感情や思いは、「自然に」湧き起り、持つものではないと思う。
自ら持とうとしなければ持てないものだと思う。
そのためには、その人の外面からは見えない尊敬できるところを努力して見つけようとしなければ
見つからない。
自分の一日をふり返り、いつもと変わらないように見えても、「今日の良かったこと」を努力して
探せば見つかるのといっしょ。
私の愛読ブログに、施設ではなく自宅、高齢者なのだけど認知症ではない、しかし命そのものを
維持していくために医療的ケアが不可欠の伴侶《最近、緊急入院され一命をとりとめられた》
のたいへんな介護をされている同年齢くらいの男性がおられ、あふれる愛情を毎日の記事に感じる。
《14日は金婚記念日を迎えられたとのこと。おめでとうございます!》
「愛」は「尊敬」、それと「感謝」ということを、その方の毎日の記事から痛感させられている)
ーーーーー
④ 「母性」という名の秩序化の装置
「〈「母性」という名の秩序化の装置〉
(問題は)利用者たちが「幼児化」されることを通じて自らの存在を価値のないものとして感受し、
自らの自尊心やプライドが侵犯されること…
「親密化の擬制」によって、こうした「幼児化」はある意味で必然的な帰結として発動する…
「母性」という名の秩序化の文化装置が内在・「母性」とは最も強力なコントロールを
それとは気づかれずに実践していく方法であり、
ケアの受け手(認知症高齢者)を徹底的に無性化/無能力化して統制する装置である」
私は、ここでは「母性」「父性」を問わず、強い立場にある介護者が、
弱い立場の認知症高齢者に対する(「これが《こうすることが》あなたのためですよ」という
一見したところ、相手を慮っているようで、その実、《自覚の有無にかかわらず》自らの都合のよい
ように操作、支配する)「パターナリズム」(「家父長主義」「父権主義」)を想った。
「あなたのため」という親切はありがたいけれど、その「親切」はむずかしい…
(「余計なお世話」という言葉もあるし…)
ーーーーー
⑤ 親密性の擬制化
「〈親密性の擬制化〉
(「擬似家族化」の原理が支配)
他人の身体に触れることで親密さを示すことによって、私たちの社会においては当たり前の、
「深く立ち入り過ぎないこと」の権利が侵害されてしまうのだ。…
「親密性」の定義である「他者との心理的・社会的距離の近さ」ゆえに
(家族が暴力の温床であると同様、まさに「その近さ」ゆえに)、
スタッフによる患者への「接触」が「暴力」へと転化され、
患者の言動が統制されていくのである。…
その一方で、利用者と施設職員は「本当の家族ではない」がゆえに、
利用者の「健康のため」「万が一」「公共性の安全・安定・安心」に細心の注意と管理が要求されるし
それが諸々の統制のレトリックの下敷きになっている」
とてもピンとくる。
介護者が入所のお年寄り(認知症高齢者)に自分の家族のように優しく、親しく
接するのはいいが、決して「深く立ち入り過ぎない」ようにしなければならない。
私はこのことの大事さを強く感じた。
(「フレンドリー」になるのはいいけど、行き過ぎてしまうと、「愛と憎しみ」の関係のように
ならないとはいえない)
「深く立ち入り過ぎ」ると、介護者は(冷静に第三者として遠くから見るのではなく)
「擬似家族」のように「その近さ」において見がちになる。
お年寄りが自分の思うとおりにしてくれないからと自分の感情に支配され、
暴力を振るいやすくなる
(それとは真逆に、最初から「本当の家族ではない」と割り切り、認知症高齢者のために
よりよい介護しようと考え、悩むのではない、「管理」に徹する。
すなわち「統制」。
「統制」にならないよう、かといって「深く立ち入り過ぎ」ることのないようにしなければならない。
ほどよく、バランスよくということ。
《思えば、何でもそうなのだ》)