「双子の運命」という単純な寓話です。
一卵性双生児でも、生まれてからは別々の人生を歩んでいく。
たとえ、「運命」(客観的に起きる出来事、出会い、つまり「環境的要因」)が同じように
訪れても、二人の心や精神のあり様は違うので、感じ方や思い方、認識や判断は
異なる。
(この寓話はそれだけの内容)
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よく似た話はこれまで聞いたことがあるけど、そうだと思う。
でも「思う」だけでは頼りないので、あらためて考えてみた。
著者は述べる。
「双子の運命
何に対し何を思うかは、あなたの自由…
マイナスに見えるような出来事であっても、その出来事自体は中立であり、
その出来事をどう解釈するかは自由ということだ」
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「その出来事自体は中立」 → プラスでもマイナスでもないということ
(客観的に、ただ出来事としてそこに存在するだけ)
よく「物事は思いよう」といわれる。
その出来事をどう受けとめるか、どう思い、どう考えるか(認識、判断するか)、
「何を思うかは、あなたの自由」なのだ。
価値を与える、持つ(見出す《「無価値」、戦争のような「価値の破壊」を含めて》)のは
あなたであり、私なのである。
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「その出来事」を「中立」状態で認識、判断できる心の余裕があれば
(自分に差し迫った関係があるわけではない場合)冷静になれても、
自分が望んだ、選んだものではなく、突然、予想外に起こると、
「その出来事」にのみ込まれてしまい、自分を見失いがちになる。
(「その出来事」の真っただ中にいると、「我を忘れ」がちになり、一つの選択肢、一方向しか
見えなくなってしまう。
意地になったり、感情に囚われる)
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とても難しいが、「距離を置き、離れ」ることの必要を強く感じた。
そのために、(5日の記事「無いものではなく…」の中、「三つめの庄内」というテレビ番組を
見て触れた)「心に余裕を持てる」ことの大事さを、ここでも痛感する。
「心に余裕」がなければ視野が狭くなり、何か問題にぶち当たったら、解決のため
一つの(もしくは少なく限られた)選択肢しか見えて来ない。
(私は目にも障害があり、加齢とともにだんだん酷くなった。
この頃は限界までバッチリ開けても視界が狭くなり、注視した一点しか目に入らない。
以前は、視界全体が見えていたのに。
これは「心の余裕」でなく純粋に身体《目》の働きの衰弱の問題だが、目玉をあちこちに移動させ、
なるべく注視した、目に入った物以外の多くを見ようと思う)
子どものころからなるべく多くの世界に「遊ぶ」、それが何であれ、とても大事。
今日の俳句
玉の如き 小春日和を 授かりし 松本たかし