今日は「猿と井戸の月」という寓話です。
(話と、それを四字熟語にした諺がネットの「goo辞書」にあるので引用します。
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えんこうそくげつ【猿猴捉月】
- 注記
- 「猴」は、サル。「捉月」は、月をとらえる。
① 「月はながめるものである」
夏目漱石が英語教師をしていたときのエピソード →
生徒の一人が「I love you」を「我君を愛す」と訳したのを聞き、「日本人はそんなことは言わない。
月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と言った
…
(著者は続いてコラムニストの山本夏彦の言葉を紹介)
「何用あって月世界へ-月はながめるものである」
月を遠くから眺める行為と、実際に月に行く行為、月の資源を開発するという行為は、
明らかにレベルが違う。
科学技術は存在するものを「何か役立つもの」として発見する。
その「何か役立つもの」という観点からのみ、その存在と関わる。
近代人にとっての月は、人間が享楽と快楽を得るために役立つ資源のありかでしかないのか。
…
(月や他の惑星に住むようになったとして)そこに生きる人類がどんな姿をしているのかは
想像すら難しい。
遺伝子工学やサイボーグ医療、ナノテクノロジーによって自らを進化させながら、
様々な環境に適応した人類は、
「われわれが想像するより奇妙どころか、われわれが想像できるより奇妙」
…
② (宇宙開発は)バラ色の夢でも、絶滅に瀕した人類が宇宙に活路を見いだすという可能性を
秘めた希望でもない。もっとグロテスクな希望である。
…
狭くて厳密な〈専門的な知〉を、広く豊かで曖昧であるがゆえに洞察力に富んだ〈常識的な知〉
(にしなければならない)
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①
「月はながめるもの」
(グーグル画像より)
夏目漱石のエピソードにはおもしろくて笑ってしまった。
次の山本夏彦の話には神妙になった。
「月を遠くから眺める行為と、実際に月に行く行為、
月の資源を開発するという行為は、明らかにレベルが違う。
…
「われわれが想像するより奇妙どころか、われわれが想像できるより奇妙」
ここを読み、子どものころから馴染みのタコのような姿をした火星人を想像した。
人類が続けばいまの人間とは姿かたちは「進化」(「退化」ともいえるのかな)して
変わるのは確かだろう。
牧歌的に眺めておられるのはいつまでだろうか。
イヤでもいつかは月に行き、月を人間仕様に開発しなければならないのだろうか。
(人類が初めて月面に降りて大騒ぎしたときは、私も胸が躍った。
100パーセント純粋に「人間、スゴイ」「アメリカ、すごい」と思った。
しかし、いま「何用あって月世界へ」を聞き、深くうなずいた。
『サピエンス全史』の著者は、その後の『ホモ・デウス』で人間は神になろうとしているという。
こんなのを「身のほど知らず」と呼ぶのではないのか。
でも、悪く言えば「身のほど知らず」であるが、前向きに言えば「飽くなき追及、挑戦」だ。
多くの人がその恩恵に与る。
それらをきちんと人間のためにコントロールできず、人類が滅亡しても、
神になった人間がしたことなので仕方ない)
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② 「グロテスクな希望」
いま私たちに必要なのは「狭くて厳密な〈専門的な知〉」ではなく、
「広く豊かで曖昧であるがゆえに洞察力に富んだ〈常識的な知〉」
えんこうそくげつ【猿猴捉月】に似た寓話は世界各地にあると思う。
(日本では馴染みぶかい「月」「猿」「井戸」の組み合わせだったけれど、国や地域ごとにいろいろ)
先日、ニュースで実際に月への移住が可能な研究・開発が進行している
ことを知った。
(「身のほど知らず」は個人についてだけの使用に限らなければならないのだろうか)
前々回の「西瓜泥棒」で、最後に「ときどきは月を見上げ、
この話を思い出してみたい」と書いたけど、思い出さなくても、
すなおにながめる喜び、幸せを感じたい。
今日の俳句
星空へ 店より林檎 あふれをり 橋本多佳子