「地震、大雨などの災害がおきませんように」と記事に書いた時は、まだ地震は起きていなかった。
祈りは神仏、天に踏みにじられた。
人間の力ではどうしようもない《個人の》運不運、大自然《地震などの自然現象を含め》の脅威を
新年早々、痛感する。
時間の経過とともに被害状況がつぶさになり、どんどん大きくなってゆく《東日本大震災のときもそうだった》。やり切れない…
能登では前から頻繁に地震が発生していた。当然、今回のような大規模なものも予想されていたはず!
《なのに、避難所では食料など必要な物資が足りないという》
予算が足りない、人手が足りないと国や自治体、行政は言い訳をする。
足りないわけはない。絶対ない!
不要なところ、ムダなところから回せばいい。充てればいいだけだ。
何が大事で、何が大事でないか?)
新春二つ目の寓話は「カエルとサソリ」です。
サソリが言った。
「川を渡りたいのです。私は泳げないのであなたの力を貸していただけないでしょうか。
オンブして川を渡ってくださいませんか」
カエルは答えた。
「そりゃあOKですが、ただし、渡っている途中、刺さないでくださいね、
いいですか、絶対刺したらいけませんよ。
刺したら、私もあなたもオジャンです。
まっ、そんなバカはしないでしょうが」
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だが、サソリはバカをした。カエルを刺した。
カエルは猛毒で、サソリは溺れ、どちらも死んだ。
耳を澄ますと、天国(地獄かもしれないが、どっちでもいい)で二匹の言い合う声が
聞こえてきた。
カエル:「刺したら絶対ダメと言いましたよね。先ずあなたの毒で私が死ぬ。
結局、私にオンブされていたあなたも死ぬ。何で刺したんですか?」
サソリ:「すんません。ほんとうにゴメンなさい…
刺してはならないとはわかっており、その気はなかったのですが、やっぱり私はサソリ、
刺すのをやめることがどうしてもできなかったのです」
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著者は言う。
「「分かっちゃいるけどやめられない」という人間の性…
サソリが人間、カエルが地球に思えて仕方がない」
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すごく、すごく共感した。
昔の流行歌を思い出した。
♪「チョイト一杯のつもりで飲んで…」という「スーダラ節」の歌詞の一節で、
歌詞にあった「分かっちゃいるけどやめられない」が大流行した。
(私は若いころ「タバコ人間」で、しょっちゅう吸っていた。
《常は安価な「エコー」。たまには高い「セブンスター」。吸うと値段の差を感じた》
酒、ギャンブルはしなかったので、「分かっちゃいるけどやめられない」は喫煙以外では
とくに感じなかった。
40のとき盲腸をし、入院部屋は9階、喫煙しようとすれば1階まで下りなければならなかった。
下りるのが面倒だったこともあり、タバコが身体によくないとは「分かっ」ていたので、このとき
「やめられない」をやめた。
「分かっちゃいるけどやめられない」ことでも、そのときの経験から、私は
納得レベルで「分かっ」ておれば「やめら」れると思った。意志が強い弱いに関わらず。
《「半分ほどの弱い納得」くらいではダメ。「全部の強い納得」でなければならない。
意志の弱い私でもやめられたのだ。
でも、タバコだからやめられたのだと思う。
これが、いわゆる「クスリ」のように依存性が高いものだったら、意志だけでは無理!)
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「性(サガ)」という言葉がある。
それをそれたらしめているアイデンティティ(自己同一性)みたいなもの。
しかし、「本質」とは違う。
刺すのはサソリの「性向」ではあっても「本質」ではないと思う。だから、
「(たまらないほど)刺したくても」サソリは刺すのをやめられたと思う。
いま騒ぎとなっている政治資金問題も、いろいろなハラスメント問題も、
ストーカー行為も、地球環境問題も人間の「性(サガ)」によるものではない
と思う。
(「本質」は、たとえば地球でいうなら地震などの自然現象。
戦争のような人間が意志で作りだす人工現象は「性向」、と私は思う)
今日の俳句
正月の 子供になって 見たき哉 高浜虚子