カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.9.24 神も仏もありませぬ

 前のがおもしろかったのでまた、佐野洋子さんのものを読んだ。

 

『神も仏もありませぬ』 という。

  (グーグル画像より)

 

「神も仏も…」とは世の中は思うようにはいかない、無情を嘆いて言う言葉だが、

あまりに世の真実を突いていて「そうだ、そうだ!」と言いたくなった。

(けれど《予想に反し》幸運が転がり込むこもある。そのときは)「神さま仏さまのお蔭」

と思う。

(まことに自分勝手だが、それが私)

 

「自分も一庶民」という確かな自覚を、佐野さんのエッセイは随所に感じさせる。

とてもユーモアがあり、爽やか。

(〈これはペテンか? ①~③、〈今日でなくてもいい〉の二つだけ引用・紹介します。

 

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これはペテンか?

まさか私が六十三? 当たり前で何の不思議もないのに、どこかに、えっまさか嘘だよなあと思うのが

不思議である。

(著者が痴呆になった自分の母に向かって聞く)お母さんはおいくつになられましたか?」

「私、えっ私、そうねェー四歳ぐらいかしら」。

① 私は驚いていたのだ(自分が六十三歳であることに)他人にもシルバーに見えるんだ。

いつの間に六十三になったのだ。わしゃ、知らん。本当に知らんかった。

子供の頃おばあさんの手の甲をつまむのが好きだった。おばあさんの手の甲をつまむと手の甲に

皮で小さな富士山が出来た。…

あの時私はおばあさんは生まれつきおばあさんだと思っていた。…子供の私はおばあさんが八十なのか

六十なのか知ろうともしなかった。八十でも六十でも同じおばあさんだった。

だからって、シリコン入れたり皮をつったりしようっていうのではないの。

ただそのたんびそのたんびに「ウッソー」と思ってしまうだけなの。

② (著者は自分を不器量と思っていた)あー、不器量なんてなんぼのものだったのだろう。…

鏡を見て、「ウソ、これ私?」とギョッとする瞬間以外、一人でいる時、私はいったいいくつのつもり

でいるのだろう。

③ 青い空に白い雲が流れて行くのを見ると、子供の時と同じに世界は私と共にある。

六十であろうと四歳であろうと「私」が空を見ているだけである。

そして四十だろうが五十だろうが、人は決して惑わないなどという事はないという事に気がつくと、

私は仰天するのだった。なんだ九歳と同じじゃないか。

そして、六十三歳になった。半端な老人である。立派な老人になった時、もう年齢など超越して、

(母のように)「四歳くらいかしら」とのたまうのだ。私はそれが正しいと思う。

私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だかに

関知していない。

 

今日でなくてもいい

そう云えば、九十七歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。

でも今日でなくてもいい」と云ったっけ。

 

    


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これはペテンか?

他人にもシルバーに見えるんだ。いつの間に六十三になったのだ。

わしゃ、知らん。本当に知らんかった。

 

自分に責任がないことを人は「わしゃ、知らん」と言うけれど、

自分で選び、主体的に歳を取るわけではない。

著者だけでなく私もわしゃ、知らん」と言いたくなってしまった。

 

知らん」から、鏡を見ない限りは老いた気はしない。

(そりゃ、耳が遠くなったり視力がぐっと落ちていることには、鏡で自分を見なくても

確実な老いの到来を感じている)

気にはしなくとも、他人は私を年齢までは言い当てずとも)「ジジイ」「お爺さん」と

見分けているらしい。

他人にもシルバーに見える」らしい。

 

歳を取るということはホント不思議。

その不思議だと感じる感覚は大事にしたい

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あー、不器量なんてなんぼのもの

 

私は男だから女性ほど器量のことは気にならないけど、「イケメン」「イケメン」

と世間のうるささ(マスコミが駆り立てている)には腹が立つ。

(が、そんなどうでもいい。くだらないことに腹を立てる自分がくだらない人間だ)

 

ある程度長く生き、さまざまな経験を積まないと見えてこない、わからないこと

あるという人生の真実。

歳を取って私も感じ、気づくことがいっぱいある。

 

   


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青い空に白い雲が流れて行くのを見ると、子供の時と同じに世界は私と共にある

六十であろうと四歳であろうと「私」が空を見ているだけである。

 

すごく感じた。

(最近、禅僧であり、さまざまな著作を通じて人生を考えさせてくれる玄侑宗久さんの本を読んだ。

華厳経」の華厳的な考え方について書かれている。それは「一即多」「多即一」という考え方。

いま六十三歳の佐野さんが青い空に白い雲が流れて行くのを見る」とき、いまそうしている

佐野さんに、あらゆる過去の佐野さんがあるということ)

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今日でなくてもいい

(洋子さんの友達のお母さんに比べれば私なんかヒヨッコだけど)ある程度の長生きすれば

いつお迎えが来てもいい」と思う。そう思いながらも、

別に今日でなくてもいい」と付け加えたくなる。

(やっぱり人間も生きもの。私もちょっとでも長く生きていたいんだ)

 

 

 

 

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                          ちりとてちん

秋茄子や 誰もいぬのに 拝んでみる  宇多喜代子

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